2015年08月28日

「うどん作り」と「ピザ作り」教室

8月26日(水)うどん作り教室

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この日は白木農園の小麦粉を使っての「うどん打ち」。
うどんの打ち方は、皆さん慣れたもので各班ごとに順調に進む。
捏ねたものを熟成(寝かせ)させる時間を利用して、今回はピザ作り。

講師を務めて下さったのは、料理教室のI先生。
レシピも用意してくださり、分かり易く丁寧に指導してくださった。

ピザも発酵させる時間があり、
オーブンで焼く時間まで含めると結構な時間がかかった。

そして、うどんの「生地延ばし」、「線切り」「茹で」「水洗い」。
全てができあがっらのは、午後1時。
終りの時間を目標に急いで頂いた。
両方ともたいへん美味しかった。

どちらも白木農園の小麦粉を使っているのだから…。
帰りには一人当たり8kgの小麦粉がお土産だった。


ピザの作り方と材料

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〈材料〉
中力粉 、ドライイースト、砂糖、塩、サラダ油、ぬるま湯

〈トッピング〉
ピザソース、玉ねぎ、ソーセージ、しめじ、ピザ用チーズ、ピーマン

〈作り方〉
@サラダ油以外の材料をボールに合わせて木ベラでこねる。
ひとまとまりになったらサラダ油を入れてさらにこねる。
丸めてボールに入れ、サランラップをかけて1次発酵さぜる。(30分)
Aフィンガーテスト・ガス抜き
B2分割にし、丸め直してベンチタイムで10分間置く。
Cとじ目を上にして、麺棒で生地の中心から上下左右に伸ばす。
厚さが1cm位までのばす。
D生地にオリーブオイルを塗って、ピザソース→具→チーズをのせて
210℃に温めたオーブンで16分焼く。

〈上にのせる具〉
・玉ねぎ……薄切り
・ソーセージ…ボイルして斜め薄切り
・しめじ…石づきを切り落としバラバラにしておく
・ピーマン…輪切り


posted by tontonton at 16:29| 広島 ☁| Comment(0) | 白木農園 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月25日

台風で中止

今日は豊栄のパソコン講習会の開催日であった。
台風15号の影響で朝から猛烈な雨と風。
午後からの講習だが、昼ごろが広島に最も接近するとのこと。
外出は控えた方が良さそうだ。
強い風で車の走行も不安、歳を重ねた方が多く運転が心配だ。

サブ講師のAさんに連絡を取り、連絡網で「中止」を流して頂いた。
少し雨は弱まってきたが、いまも風は強く吹いている。
なにより安全が第一。
豊栄教室での中止は、数年前に大雪以来である。


posted by tontonton at 14:17| 広島 ☁| Comment(0) | パソコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月21日

パソコン教室

8月20日(木)パソコン教室

昨夜は久しぶりの白木農園パソコン教室だった。
1年前の8月20日集中豪雨による土砂災害から丁度一年目の日でもあった。
谷岡さんも土砂災害の被災者のお一人だった。
参加者全員で先日8月10日、泉下の人となられた谷岡さんに黙とうを捧げた。
寡黙な人だった、穏やかな人だった、優しい方だった、などなど…。
谷岡さんのお人柄を偲ぶ言葉がいろいろな方から発せられた。

先月のパソコン教室や料理教室でもお会いしていたので、
訃報を受け取った時には信じられなかった。
仲間のお一人が亡くなった。本当に寂しい。

昨日の教室では8月26日のうどん作り教室が主たる話題だった。
また、Windows7からWindows10へのアップグレードはもう少し先でした方が良いとお知らせした。

自分が使用している富士通から下記の様なメールが届いた。

「2015年7月29日にマイクロソフト社より公開されたWindows 10について、
アップグレード後に、パソコンが操作できなくなり、
修理が必要になるケースが急増しています。

Windows 10へアップグレードすると、
パソコンの機能がご利用いただけなくなったり、
動作が不安定になったりする場合があります。
このままアップグレードせずにご利用ください。」

マイクロソフトが解決してくれるのだろうか。
楽しみにしていたのだが…。

posted by tontonton at 13:05| 広島 🌁| Comment(0) | パソコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月15日

戦後70年の今年、昭和を振り返る

戦後70年の今年、改めて昭和を振り返ってみようと半藤一利さんの「昭和史」「昭和史戦後編」を読みました。
文庫本ですが両巻合せて1150ページほどで、読み応えがありました。
「昭和史」は1926年から1945年までを「昭和史 戦後編」は1945年から1989年までを語っています。
語っているというのは、この書籍の「あとがき」に次のように書いてあるからです。

「学校ではほとんど習わなかったので昭和史のシの字も知らない私たちの世代のために、手ほどき的な授業をして頂けたら、たいそう日本のためになると思うのですが」と編集者の山本明子さんの執拗な説得から、半藤さんの寺子屋が始まりました。ときには特別聴講生も加わったそうですが生徒は4人でうち3人は戦後生まれだったそうです。「君側の奸?なんですか」とか「統帥権干犯?聞いたこともない」とかの質問が出て遅々たる授業になったそうです。

編集者の山本明子さん同様、私たちも学校では特に現代史は教えてもらえませんでした。昭和史の戦前篇の550頁をできるだけ簡単に、でもひと通りのことが理解できるようにまとめたつもりです。思ったより随分な長文になってしまいましたが、できるだけ多くの昭和史をご存じない方に読んで頂ければ嬉しく思います。

昭和史の語り部が話した内容を戦後生まれの編集者がまとめているので大変読みやすく理解しやすい書籍です。できれば、このブログを読んで頂いた方は是非、半藤一利さんの「昭和史」(平凡社)をお読みいただきたいと思います。

それにつけても、歴史とはなんと巨大で多様で、面白い物語であるかとつくづく思います。人間の英知や愚昧、勇気と卑劣、善意と野心のすべてが書きまれているからです。歴史とは何かを考えることは、つまり、人間学に到達するのだと思います。


「昭和史」の戦前篇は、なぜ太平洋戦争へ突入していったのか。開戦、栄光からあまりにも早い逆転の悲惨への道。勝機がなくなっても何故戦い続けたのか。そのことを以下にまとめました。

昭和史の始まりは、日露戦争の勝利により諸権益を受け、国防最前線としての遼東半島のほとんど全部を清国から借り受けことです。さらに、資源の乏しい日本にとってもっぱら輸入に頼っていた鉄やスズ、亜鉛などの資源供給基地としての満洲への足掛かりを作れたことになります。
また、人口がどんどん増えて問題が起こっていた狭い日本にとって人口流出先としての満洲は必要不可欠な土地だったのです。
この様な3つの大きな役割を持つ満州を、日露戦争に勝ったことによって日本は手に入れ明治の終わり以降、これをどうやって経営していくかが政治の中心課題になってゆきました。

しかし、強国になった日本を保持し、強くし、より発展させるためにはどうしても朝鮮半島と満州を押さえておかなければならない。激動する国際情勢の中、どんどん悪化しつつある状況にどう対応すべきか、昭和の日本人が最も解決を急がされる命題としてつきつけられました。
ここから昭和史は始まるのです。昭和史の諸条件は常に満州問題と絡んで起こります。

日本軍が爆発して暗殺したという、いわゆる「張作霖爆殺事件」がその始まりでした。
関東軍は「関知しない」と押し通しますが、現場の状況から日本軍の謀略であることが明らかになってきます。当時の内閣総理大臣である田中儀一に元老の西園寺公望が調査して厳罰に処すように言いますが、元陸軍大臣だった田中儀一は陸軍からの突き上げもあり結論を先延ばしにします。
若い昭和天皇は、煮え切らない田中総理に辞職するように言います。田中総理は総辞職し、その後死亡します。
だが、陸軍は「一連のことは宮中の陰謀であり、彼らがろくなことをしか天皇に進言しないから、とんでもないことになる」とし、以降は、天皇の傍にいる重臣たちを敵とみなすことになりました。
これを陸軍は「君側の奸」と呼ぶようになったのです。
この「君側の奸」と「統帥権干犯」が昭和を間違った方向へと向かわせるのです。

それから間もなく昭和がダメになる満州事変へと突入するのです。
「満蒙は日本の生命線である」、このスローガンを掲げ、マスコミをうまく利用し、国民の気持ちを同じ方向に向かわせるのです。
そして、関東軍が謀略により満州事変を引き起こします。一方、軍の満蒙問題に関しては厳しい論調だった朝日新聞と東京日日新聞(現在の毎日新聞)が関東軍の擁護に回って、正当な戦いであると報じたのです。
事変後、軍部が全国民の応援を受ける様になり、マスコミは競って世論の先取りに狂奔するようになっていきました。

昭和6年の満州事変で日本国内の昂まった戦争気運を利用し、国民をリードして満州独立の構想を推進しようと考えます。戦争は新聞を儲けさせる最大の武器ですから、新聞もまたこの戦争を煽り部数を増やしていこうと軍の思惑通りに動いてゆくのです。
そして、昭和7年満州国が建設され、作戦参謀長らが帰国すると万歳、万歳の出迎えを受けました。半藤一利さんは、昭和がダメになったのは、この瞬間だったと話しています。

満州ではぐんぐん戦争が遂行され、侵略地もどんどん拡大してゆきました。満州だと極端にいえば世界列強にとっとは利害関係がなかったのですが、上海はイギリスもアメリカも租界があって利害関係が山ほどあります。
「東洋のマタ・ハリ」と言われた川島芳子を使って中国人に金をまき事件を起こさせて上海事変は始まりました。
この時、これに乗じて満州の関東軍は北部のハルビンへの攻撃をも開始しました。

上海事変は陸軍だけではなく海軍航空隊も戦いましたから、海軍も相当の犠牲者を出しました。ところが、ただの事変ですから勲章も何もありませんでした。その他いろいろな不満がありました内閣及び重臣(君側の奸)がけしからんと犬養首相を暗殺した五・一五が起こったのです。

ラストエンペラー溥儀を元首として満州国は独立宣言をします。その頃、国際連盟が満州国の実態を調べるためにリットン調査団を派遣します。国際連盟は「満州国の独立は今後の問題として残るが、11月16日までに日本は満州国からいったん撤退した方が良い」との議案を提出し賛成多数で議決しました。賛成42か国、反対1か国、たった1票の少数意見でした。

2月20日、ついに国際連盟は、日本の満洲からの撤退勧告を総会で採択します。日本政府は国際連盟からの脱退を決定せざるを得なくなります。新聞は一斉に「いいぞいいぞ」とその脱退にむけての国策を応援し盛り立てました。
そして、「栄光ある孤立」を選択した日本と日本国民は、排外的な思いを強め世界中を敵視する気持ちになり始めたのです。
一番大事なのは、この後から世界の情報の肝心な部分が入ってこなくなったことです。つまり、国が孤立するという事は情報からも孤立化するという事です。それを全く理解せず、自国の歴史をとんでもない方向に引っ張ってゆくのです。
この後、孤立化した日本は軍部が支配する国となり、国民的熱狂に押されながら戦争への道を突き進む事になるのです。

昭和8年秋には、すでに厳しくされていた新聞紙法に加えて、出版法が改正(改悪)され、これ以降は、当局が新聞雑誌、ラジオなどをしっかり統制できるようになりました。そして、昭和10年前後の天皇機関説や国体明徴は、「思想」の問題でありながら、実は定まった標的を叩き潰すための論議になり、天皇側近の穏健自由主義者たちはどんどん腰砕けになっていきました。
こうして自由な言論は封殺され、軍国主義化が進みます。そして、日本を根本から揺るがし、軍の強大な力を誇示する2・26事件が起こるわけです。

2・26事件

陸軍は統制派と皇道派に分かれていましたが、陸相の交代により統制派が俄然、力を得ます。しかし、皇道派の青年将校たちは統制派で固められた陸軍中央に信をおいていません。
8月12日に皇道派の相沢三郎中将が陸軍省の軍務局長室で、いきなり軍刀を引き抜き永田鉄山少将を斬りつける大事件が起こります。永田は即死でした。相沢中将は軍法会議にかけられ死刑判決を受けます。
これを契機として、「相沢に続け」の思いが青年将校たちの胸にふつふつと湧いてきました。
相沢裁判が繰り広げられる中で、その裁判の陰に隠れて密かにクーデター計画が練られ、だんだん具体化してゆきます。

昭和11年2月26日の2・26事件という、大々的な革命運動に繋がったのです。
2月26日午前5時、1483人の決起部隊(後に反乱軍)がそれぞれすでに決められた完全武装で襲撃目標に向かいました。首相官邸、陸軍大臣官邸、侍従長官邸、内大臣私邸などを襲撃します。また、朝日新聞社、日本電報通信社などを襲撃、決起趣意書を手交します。

しかし、最大の狙いであった宮城占拠計画はならず、しかも理解者であると思っていた天皇陛下は自分たちに対してまるで同情的でもないことが分かるのです。
28日には占拠部隊に「直ちに原隊に帰れ」の大元帥(天皇陛下)命令がでますが、奉勅命令を信じません。この大元帥命令を陸軍中央はあらゆる手段で徹底しようとします。朝日新聞社で飛行機を借り空から有名な「下士官に告ぐ」のビラを撒き、アドバルーンを上げ、ラジオで放送します。
2月29日朝が明けると同時に「これまで」と、反乱軍は戦闘行為をやめて次々に原隊に戻り、事件は終わりました。

これ以降の日本は軍部が絶えず「2・26事件」の再発をちらつかせて政・財・言論界を脅迫し、軍需産業を軍が抱きかかえ、国民を引きずり戦争体制へと大股に歩きだすのです。

盧溝橋事件

昭和12年には盧溝橋事件がおこり、中国共産軍と日本軍の全面戦争に突入します。首都を落とせばと南京を目指して進撃します。この南京を遮二無二に攻めたことが「南京虐殺」と呼ばれたのです。半藤さんは「南京大虐殺」については”神のみぞ知る”と語っています。
南京は陥落しても戦争は終わりませんでした。共産党軍は「戦わず逃げる、けれども後から占領する」を繰り返していました。日本政府も軍部もこんな戦いをいつまでもやっていてはと、和平工作を画策しますが上手くゆきません。
参謀本部の国民への都合の良い戦況だけが報告され、日本中が旗行列や提灯行列で沸くなか、出口の見えない日中戦争に突入してゆきました。

陸軍は2・26事件によって統制派が天下を取り日中戦争へと具体化していった頃、海軍でも対英米強硬論が次第に支配的になってゆきます。
その完成を目指して昭和14年、国家総動員法の体制ができあがりました。

国家総動員法は、国民を好き放題に徴用できる、賃金を統制できる、物資の生産・配給・消費などを制限できるのです。会社の利益を制限できる…、つまり戦争のために国民の持っている権利をいざとなったら全面的に政府に譲り渡すというものです。
もうひとつ、昭和13年には、日本がアジア新秩序を作ると「東亜新秩序」の声明を発表します。これは、日本がアメリカを含む西欧列強と縁を切ったことも意味します。
政府も軍部も強気一点張りになっていきました。

そして、ノモンハンの悲劇が起こります。
最新鋭の戦車、重砲、飛行機を次々と投入してくるソ連軍に対して、日本は銃剣と肉体を持って白兵攻撃でこれに応戦しました。日本側は約59,000人が出動しますが凄惨な戦いで三分の一が死傷してしまいました。
昭和14年8月にこの戦いは終わります。
事件後、軍司令官や師団長は軍を去りますが、参謀たちは罪を問われず、この戦いを指揮した関東軍の作戦参謀の服部卓四郎中佐は昭和15年には参謀本部に戻って作戦班長に、翌16年には作戦課長になります。また、同じように辻政信は作戦課に戻り、戦力班長になります。
この様に作戦に失敗し、これだけ多くの犠牲者を出した参謀たちが太平洋戦争を推し進める部署に戻ったのです。
残念ながら日本人は歴史から何も学びませんでした。今も学ぼうとしていないように思えますが…。

昭和14年にはソ連のスターリンが登場し、ドイツのヒットラーと「独ソ不可侵条約」を結びます。これで東の敵を休ませることに成功したドイツはこの年の9月ポーランドに進撃するのです。
第二次大戦が勃発したのです。日本国内では三国同盟や天津事件問題などでくすぶっていたことが、ぶっ飛んでしまったのです。残ったのはアメリカの日米通商航海条約破棄の通告だけでした。
こうして、昭和15年、紀元2600年を迎えるわけです。

閑話休題

昭和15年、国粋主義で徹底しようとします。
政府は映画会社やレコード会社に、芸名が「ふまじめ」「不敬」「外国人と間違えやすい」ものを改名するように命じました。その例をいくつか…。
歌手のディック・ミネは「三根耕一(みねこういち)」
野球のスタルヒンは「須田博(すだひろし)」
七人の侍の藤原釜足は「藤原鶏太(ふじわらけいた)」と改名しました。

また、敵性言葉をつかうなと
プラットホームは「乗車路」、ビラは「伝単」、ラグビーは「闘球」、パーマネントは「電髪」、スキーは「雪艇」など、横文字は片っ端から禁止と槍玉に挙げられたそうです。
お粗末と言うしかありませんね。

アメリカは昭和15年1月に日米通商航海条約破棄を完全廃棄したばかりでなく、ルーズベルト大統領は、石油や鉄屑などの日本への輸出を政府の認可制にしました。これは海軍にとっては衝撃でした。いくら軍艦があっても燃料がなければ動かすこともできない、ならば万一に備えて鉄や石油などがとれる東南アジアのジャワ、スマトラ、ボルネオといった資源地帯に進出して背源を確保する必要がある、と考えます。
それにはどうしても仏印(フランス領インドシナ三国、特に現在のベトナム)まで兵力を進出させる必要がある、いざとなればそこを基地にしてアメリカの根拠地フィリピンを叩かねばならないからです。
これはもう対米戦争は必至、という堂々めぐりです。
アメリカの輸出許可性などの措置は、明らかに日本に対する戦争を前提とした脅迫行為です。
海軍が強く反対していた日独伊三国同盟もこの様な状況下で結ばれてゆきます。

一方、ヨーロッパではドイツが英本土上陸作戦を進めていました。上陸作戦の準備が遅延する中、「空からの本土爆撃」を空軍総司令官のゲーリングが提案し実行に移されます。
1940年(昭和15年)9月15日、ドイツは戦闘機700機、爆撃機400機と全力でロンドン総攻撃にかかります。イギリスは動けるすべての戦闘機約300機を集めて迎え撃ちました。数はドイツの半分以下ですが、往復しなければならないドイツ軍に対してイギリスは自分の国の上空で戦っているのですから、上がったり下がったりの繰り返しでいいわけで、300機は約3倍の力を持つのです。
この大反撃でイギリス空軍は完璧にドイツ空軍を叩きのめしました。
いずれにしろ、この勝利が、本土上陸作戦でイギリスを占領するというヒットラーの野望を完全にくじいてしまいました。

そんなこととは知らなかった日本では、その裏側で同じ日に三国同盟締結締結の意見を一致させていたのです。時差はありますが同盟締結を決定したのが9月16日でした。歴史とは本当に皮肉なものですね。

日本は、ヨーロッパで大戦争を起こしているドイツと軍事同盟を結び仮想敵国ではなく、英米を正真正銘の敵にしてしまったのです。
それに連動するように陸軍は、万一の備えて南方に軍隊を進出させておく必要があることから、昭和15年9月26日に北部仏印(現在のベトナム)進駐する大計画を立てます。
フランスの傀儡政権の総督府がありましたが、うまく機能せず、その仮の政府と交渉し、現在のハノイ周辺に軍隊を送り込むことにしたのです。ところが進駐してきた日本軍と守備にあったっていた仏印軍と銃火を交えてしまいました。侵略と言う結果になったのです。

その頃国民は、生活状態も押し詰まってきて自由がきかず、心の中にはかなりの不満を抱いていました。それをなんとか抑えていられたのは、中国では勝てる戦争をやっている、そしてそれは正義の戦いであり、決して間違ったことをしているわけではない、という意識がマスコミなどによって叩き込まれていたからです。ただ、泥沼の戦争がえんえん続き、しかも報道によれぽ「アメリカとイギリスが次々に蒋介石に援助物資を送っている、おまけにアメリカは日本に強硬な経済的圧迫をますます強めてきている。」と言う言葉が新聞紙上に踊り始めました。
「米英討つべし」の声も聞こえはじめている……というので、なんとなしにもう一つドカーンとやればすべてが解決するような、次の戦争を望むような、どちらかといえぽ好戦的な風潮が、国民の心のなかに生まれていたといってもいいと思います。
日本の明日を脅かす"敵"がすぐそこにいるのだ、それを叩かないことにはこの状態がいつまでもだらだらと続いてゆくというやりきれない思いが国民の心理を揺さぶっていたのではないでしょうか。

昭和16年になりますと統制は厳しさを増します。治安維持法、国家総動員法、言論出版集会結社等臨時取締法、軍機保護法、不穏文書臨時取締法、戦時刑事特別法など、国民とマスコミはありとあらゆる法令によりがんじがらめになります。

暴走し始めた現在の安倍政権に良く似ているような気がします。
国家安全保障会議(日本版NSC)法、特定秘密保護法、集団的自衛権行使、この3つがセットになって運用されるとき、実際の政策決定の現場でどんなことが起こるのかを想像すると「恐怖の三点セット」になるのではと危惧します。国家の暴走へと走った昭和16年のこれらの法律と重なってきます。


対米英戦に向かって突き進んでゆくのですが、全く戦争を回避する動きがなかった訳でもありません。昭和15年秋ごろ、アメリカからウォルシュとドラウトという二人の神父が日本にやってきて、「日米国交打開策」を携えて近衛首相らとも会っているのです。陸軍の中でもに乗り気になった人がいて、当時欠員だった駐米日本大使を補充して一気に解決しようしたのですが、大使に選ばれた海軍大臣野村吉三郎に恨みを持っていた外務省が姑息な手段で潰されてしまいます。

太平洋戦争の決断の道へ

南部仏印進駐によって、太平洋は一気に波立ちました。アメリカは中国に飛行機とアメリカ人飛行士をどんどん送り込みます。そして、仏印進駐と同時に、極東アメリカ陸軍を創設し、ダグラス・マッカーサー中将(のち元帥)を総司令官に任命します。
さらにフィリピン人部隊を派遣米陸軍の指揮下に入れます。フィリピンがアメリカの一大基地となったのです。

何とか戦争を回避しようと何度も御前会議が開かれますが、
1.米英に対して戦争準備をする
2.これと並行して日米交渉を進める
3.交渉が成立しない場合は米英に対し戦争を辞せざる決意をする
と言う議題になって行くのです。
これを見てゆくと、まず戦争の準備を記し、二番目が外交交渉です。戦争が主で、外交が従だと思えます。

第3回の御前会議が開かれ、事実上、太平洋戦争の開戦を決定づける会議となったのです。質疑が終わり、原枢密院議長が結論を出しました。
「今を措いて戦機を逸しては、米国の頤使(アゴで使われる)に屈するも已む無いことになる。従って米に対し開戦の決意をするも已む無きものと認む。初期作戦はよいのであるが、先になると困難を増すが、何とか見込みありと云うので、之を信頼す」これをアメリカにいる野村大使に電報で送ります。
なんとか日米交渉を妥結せよ、その期限は11月いっぱいと期限も切られていました。それはすべて傍受され解読されたいました。アメリカは開戦の時期までつかんでいたのです。

開戦直前の陸軍は南方軍の他にも中国に、満州に、朝鮮に、そして内地にと、228万という兵力を擁していました。
一方海軍は、ハワイに向かう機動部隊の他、南方作戦支援の第二艦隊、フィリピン後略部隊支援の第三艦隊など、主要軍艦258隻、百万トンが予定海域に待機します。
なかでも南雲中将指揮の機動部隊は11月26日午前6時、千島ヒトカップ湾よりハワイにむけて出撃します。
丁度その時期、日米交渉をしていたアメリカのコーデル・ハル国務長官が野村大使にアメリカの最終案だとする「ハル・ノート」が手渡されていました。

日本にとってとうてい受け入れられない要求を突きつけられました、これを受けて12月1日第四回御前会議が開かれます。開戦を決定します。
この決定を受けて12月2日、山本連合艦隊司令官は全軍に暗号による指令を発します。
「ニイタカヤマノボレ 1208」、開戦、Xデーは12月8日と決定しました。

栄光から悲惨へ

開戦に当たっては、国際条約に基づき「宣戦布告」をすることが決められていました。天皇陛下からも「攻撃開始の前に、きちんと最後通牒を手渡すように」と東条英機首相兼陸軍大臣は厳命されます。
宣戦布告をせずに開戦しようと考えていた政府は。あわててワシントンの大使館に通告文を送ります。結果的には大使館員の怠慢や無神経さが災いして、あってはならない破廉恥な事態となりました。
真珠湾で日本の海軍機がハワイの太平洋艦隊主力に魚雷や爆弾による攻撃を開始してから1時間後に通告が手渡されました。
ところが、これらの打電はアメリカはどんどん解読して、開戦の通告であると認識していました。
「リメンバー・パールハーバー」、これは、後にガダルカナル島をめぐる攻防の時、海兵隊の口から出る言葉になるのです。

ひたすら大勝利に酔った日本国民

とにかく国民は真珠湾攻撃の大勝利に一気に沸きました。
さらに、台湾南部を基地とする日本の航空部隊がフィリピンの米軍基地を攻撃し、アメリカの航空部隊を完璧に撃破してしまいました。
とにかく戦争が始まって毎日のように「勝った、勝った」の日の丸の旗行列、提灯行列が賑やかになっていきました。
戦争がはじまり、とにかく緒戦は威勢が良く、連合艦隊は大勝利に次ぐ大勝利です。時を合わせた様に12月16日、戦艦大和が竣工し、連合艦隊の第一線にその勇姿を現しました。

長期戦にはならないと考えていましたから、それ以降の作戦が全く立てられていませんでした。
連合艦隊は「ハワイ占領」を夢に膨らせます。その前にミッドウェーを奪いに行けば、アメリカはこれを阻止するためなけなしの航空母艦を出してくるだろう。それをチャンスに撃破してしまおう、と考えるのです。
何とも無謀な戦争拡大です。ミッドウェーを占領できたとしても補給はたいへんだし、攻められたら守るのも困難です。

そんな意見が出てきた矢先の昭和17年4月28日、アメリカによる東京空襲が起こります。なけなしの航空母艦の上に陸上の爆撃機B25を載せ、なんとか甲板から飛び立っても戻って着艦できず、やむを得ないから中国大陸まで飛んで行って蒋介石の飛行場に降りる、という誰も考えない様な破天荒な作戦を実行します。
日本の上空に次から次へとB25が飛んできて飛んで去ります。大した被害にはならなかったそうですが、日本側は大騒ぎになりました。これは、太平洋がガラ空きだからと「ミッドウェー作戦」が具体的に動き始ます。

昭和17年6月5日、日本の空母4隻とアメリカの空母3隻の戦いとなったミッドウェー海戦は、今度は見事にアメリカの奇襲攻撃を受けて、日本の4隻が全滅し多数の戦死者をだす大敗を喫しました。
ミッドウェー海戦までが日本の一番威勢の良かった時期で、以降は「戦争」ではなくなるのです。
敢えて言えば、日本軍が肉体をもって鉄と弾丸にぶつかってゆく殺戮にむかってゆきます。
悲惨な状況が、次から次へと展開されることになるのです。

もはや勝機がなくなって

ミッドウェーで海軍は負けましたが、これを外部には完全に秘していましたから、陸軍は南方地域を完全に占領していたので大いに意気が上がっています。左団扇でのほほんとしている時、アメリカ軍は早くも反攻を開始しました。ガダルカナルの争奪戦です。

ガダルカナルの激戦で海軍は戦艦を含む船艇24隻を失いました。日本の飛行機は893機が撃墜され、搭乗員2362人が戦死しました。ベテランの飛行機乗りの大半が戦死し、あるいは傷つき、これ以降は、あまり熟練していない人たちが飛行機に乗るようになりました。
陸軍が投入した兵力3万3千600人のうち、戦死者約8200人、戦病死約1万1000人、その殆どが栄養失調による餓死なんです。哀れというほかありません。

山本五十六の戦死

昭和18年の春頃には外務省も含め海軍最高の暗号もすべて解読されていました。
そうした時、山本長官が視察のためラバウルからブインの飛行場に飛ぶ計画も事前に察知され撃墜されたのです。 日本国民をあっと驚かせました。山本長官が前線で戦死したのです。
衝撃があまりにも大きいというので、4月18日の戦死は5月21日まで発表を伸ばしました。

インパール作戦

敗退に次ぐ敗退の情勢のもと、不利になりゆく戦勢で不人気になりつつある東条内閣への、全国民の信頼を再燃させるための政治的意図によりインパール作戦が実施されます。
この作戦を推進したのが、第十五司令官・牟田口廉也中将とビルマ方面司令官の河辺正三大将です。二人は盧溝橋事件の時の旅団長と連隊長でした。ビルマ防衛が本来の任務なのに、功名心から攻撃作戦にでたのです。
雨季のビルマをインパールに向けて無理やり進軍して、二進も三進もゆかなくなり、撤退に次ぐ撤退をするのですが、イギリスとインドの連合軍は容赦なく追撃します。実に多くの方が戦死しました。飢えてどんどん死んでゆく兵隊は山のように積み重なったと…。

サイパンの陥落

アメリカはフィリピン奪還のために航空母艦を中心とする大部隊を展開してきます。そのためにマリアナ諸島のサイパン、テニアン、グァムが目標になります。この島をとられると日本本土がB29爆撃機によって空襲するのでこの島々は死守しなければならなかったのです。

6月15日、米軍はサイパンに上陸を開始します。面白いことにその9日前の6月6日にヨーロッパでは英国本土からの大兵力によるノルマンディ上陸作戦が始まっています。西も東も軌を一にしたように日本とドイツの命運を決する大作戦が始まったのです。
「絶対に落ちない」と豪語していた服部卓四郎作戦課長(ノモンハン事件の時の首謀者)の思惑は一か月もしない間に打ち砕かれました。
サイパンを奪られた日本軍は、6月19日連合艦隊の総力を挙げての決戦にでます。アメリカ海軍との激戦の末、惨憺たる敗北を喫します。空母3隻が撃沈され、1年がかりで養成した飛行機部隊は壊滅、359機が全滅しました。

特殊攻撃隊

もはやだめだと結論が出たとき、伏見宮がこう言ったというのです。
「それならば、陸海軍とも何か特殊兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない」
実は昭和19年ころから、勝つための手段として特別攻撃兵器を研究していました。戦闘機に爆弾を積んで突撃する方法、モーターボートに爆薬を一杯つけて敵の軍艦に突入する兵器などです。

10月20日フィリピン上陸が開始されます。
この時、日本海軍は初めての特攻隊が編成されたのです。
総指揮をとった関大尉のもと敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊などが編成され、10月25日に基地を飛び立ち再び帰りませんでした。28日、海軍は神風特別攻撃隊を大々的に「命令ではなく志願による」として公表しています。

神風特別攻撃隊も、後の回天特別攻撃隊も、志願によった、となっています。
そこには全く、海軍リーダーたちの自信も責任も持たない、モラルのかけらもない命令です。

東京の上空にサイパンを飛び立った爆撃機B29が初めて姿を見せたのは昭和19年11月1日でした。そのほぼ一週間前、フィリピンの東方海域で凄絶な戦いが展開されました。これをレイテ沖海戦と言いますね。

ヤルタ会談

負け戦が続いていた昭和20年、ウクライナのヤルタにアメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンが会談します。ドイツがまもなく降伏することが分かっていますので、もっぱら戦後のヨーロッパをどうするかが主題でしたが日本の降伏についても話し合われます。
ソ連は日露戦争で失った諸権益をすべて復活したいと要求します。アメリカもイギリスも特に反対しません。
ソ連と日本は不可侵条約を結んでいましたから、ソ連は中立を守ってくれると信じ込んでいました。

硫黄島の戦い

この頃、日本国内では「本土決戦完遂基本要綱」を決定します。本土防衛のために8月末までに59師団に拡大動員することや国民義勇軍の編成も計画されました。「質よりも数を第一とする」と無茶苦茶に兵隊さんを集めるのです。
そうした陸軍の作戦計画をあざ笑うかのようにサイパンやテニアンから飛び立ったB29による本土空襲が激化して行きます。日本の爆撃機もこれを打ち落とすために体当たり攻撃します。
B29の損害が軽視できないとみると戦闘機を護衛につけるため硫黄島を飛行場にするため狙われます。
日本軍の2万9千余りの将兵と米海兵隊7万5千余りとの間に凄惨限りない戦闘が行われました。
2月29日朝から開始され、3月26日の夜明けまで戦闘は一瞬の休止もなく続けられ、硫黄島は米軍の手に落ちました。

「日本の家屋は木と紙だ。燃痍弾で十分だ」と夜間低空飛行による燃痍弾攻撃が始まります。
こうして3月10に日の東京大空襲が皮切りとなり、東京の下町は全滅しました。

沖縄上陸

アメリカ軍は勝ちに乗じて4月1日、物凄い大部隊を投じて一気に沖縄にやってきました。
軍艦1317隻、航空母艦に乗っかった飛行機1727機、上陸部隊18万人です。
迎え撃つ日本軍は第32軍6万6千と海軍陸戦隊の8千人、合計7万7千人でした。満17歳から45歳までの沖縄県民2万5千人も動員しました。また、男子中学校の上級生1600人も加えられます。さらに、女学校の上級生600人も動員されました。

本土決戦の準備ができていない日本は、できるだけ時間を稼いでほしいと陸海軍も全力を挙げてます。残っている軍艦もすべて投入するというので、戦艦大和を中心とする残存の数少ない艦も特攻作戦で沖縄に出撃を命じられました。
連合艦隊司令長官の豊田副武対象の有名な訓示があります。
「皇国の興廃はまさにこの一挙にあり、ここに特に会場特攻隊を編成し、壮烈無比の作戦を命じたるは…(後略)…。」日本海軍の伝統と栄光を後世に伝えるため、お前たちは死んで来い、というのです。
翌7日。九州坊岬沖で米軍約380機の攻撃を受けて大和隊は壊滅しました。

同じころ、更にやりきれないニュースが、遠くモスクワからもたらされました。ソ連が日ソ中立条約を破棄すると通告してきたのです。
ドイツでは、ベルリンに侵攻したソ連軍と市街戦を行っていた4月30日、地下壕でヒットラーが自決し、5月7日には無条件降伏します。

この頃、和平の話も全くないわけではありませんでしたが、戦争を継続する勢力が強く、和平の構想は進められることはありませんでした。

そして、6月22日沖縄戦は日本軍の壊滅をもって終了しました。戦死10万9千人、ほかに市民10万人が亡くなりました。

原子爆弾とポツダム宣言の黙殺

原子爆弾

膨大な費用と人間を投入して研究や実験を重ねた結果、核分裂に成功し、1945年7月16日、ニューメキシコ州で原爆実験が行われ成功していました。破壊力はTNT火薬2万トンに相当する、つまりわずか5トンの原子爆弾が2万トンの爆弾と同じ威力をもつことになることが分かったのです。
この時、2発の原子爆弾が完成していました。
ソ連が進行する前に日本を降伏させたいアメリカは原爆攻撃作戦を急いだのです。

ポツダム宣言

7月26日、いわゆる日本に降伏を勧告するポツダム宣言が発せられます。日本は降伏したいのならこの宣言をすべて守れという内容です。
天皇陛下は「原則として受諾するほかないだろう」と東郷外相に告げました。ところが、ソ連仲介の依頼を待っていると無視することになってしまいました。
国民の戦意を低下させる条項は削除して翌々日の28日朝刊で発表しました。すると、新聞社ではこれを独自に解釈し逆に戦意昂揚をはかる強気の言葉を並べて報じたのです。
「笑止、対日降伏条件」と題して、「戦争完遂に邁進、帝国政府問題とせず」読売も朝日も毎日新聞も同様な内容でした。
鈴木内閣は、政府としては重要な価値があるとは考えない。黙殺するだけである。と記者会見で述べます。この「黙殺」を外国の新聞は「拒絶」したと報道したのです。
原爆投下の口実も与えてしまったのです。

原子爆弾の投下命令

7月24日にはトルーマン大統領から正式に承認がでていました。
「合衆国陸軍戦略空軍総司令官カール・スパッツ将軍宛てに
第20空軍509爆撃隊は、1945年8月3日以降、天候が目視爆撃を許すかぎりなるべく速やかに、最初の特殊爆弾を次の目標の一つに投下せよ。(広島、小倉、新潟および長崎)
爆弾の爆発効果を観察し、記録するために、陸軍省から派遣する軍および民間の科学者を運ぶ随伴機を、爆弾搭載機に従わせよ。観察機は爆発地点から数マイル離れたところに位置させよ。…」
このように、記録を見ればすでに7月24日に投下命令が出ていて、8月3日以降はいつ投下されても不思議ではない状態になっていたのです。
何も知らない日本はひたすらソ連の仲介の和平に目を向けて待ち続けたのです。

そして、昭和20年8月6日、広島の朝は非常に蒸し暑く、雲一つない快晴でした。
7時9分に警戒警報が鳴りました。上空に3機のB29の影が認められたからです。ですが、そのまま去っていったのです。7時31分には警報は解除になり、人々は日常の生活に戻りました。
ところがそれから40分ちょっとたった8時15分、B29のエノラ・ゲイ号から原子爆弾が投下されたのです。
直径150メートルの巨大な火の玉が広島上空を覆ったのです。爆心地から半径500メートル以内の人々や住宅は3000〜4000度の高熱で焼きつくされました。

昭和20年11月時点の死者は7万8千150人、行方不明1万3千983人、負傷者3万7千425人と発表されました。その後、原爆症という不治の病に侵され今日まで死者の列は続いていますので正確に何十万人の方が亡くなったのかは現在でも不明です。

8日には天皇が「この様な兵器が使われるようになったは、戦争を続けることはできない、速やかに戦争を終結する努力をせよ。」と鈴木首相に伝えます。ところが急なことなので最高戦争責任会議を開くことを9日朝まで延期します。
その日、ソ連が満州の国境を破って侵入してきたのです。
午前10に30分に会議は始まります。鈴木首相は「ポツダム宣言を受諾し、戦争を終結させるほかない」とはっきり言いました。会議は俄然、紛糾します。天皇制が危機にさらされることや国体が破壊されるなどです。
その会議の最中に、第二の原子爆弾が長崎に投下されたことが伝わるのです。予定していた小倉市街が雲に覆われて目視できず、目標を長崎に変更したのです。
これも同年の11月時点で、死者は7万5千人と発表されました。

一方、最高戦争責任会議は何時間かけても議論を重ねるばかりで午後10時半になっても結論は出ません。
そこで御前会議が開かれることになりました。

10日朝、外務省は中立国であるスイスとスェーデン駐在の日本公使を通して「天皇のもつ大権が保護されるならことを了解してもらえるなら、それを条件としてポツダム宣言を受け入れ降伏する。」連合国に伝えました。

ポツダム宣言受諾は「戦争状態を終わらせる」ということで、「降伏の調印」をするまでは戦争は完全に終結していません。みっともないことですが、日本はそのことをはっきりと知らなかったようです。
ソ連は降伏文書に調印するまではチャンスだと考え、武器を捨てて投降したした無抵抗な関東軍へ攻め入ってきたのです。満州の悲劇です。こうして日ソの「一週間戦争」後の戦闘に置いて日本の軍隊のみならず一般民衆も巻き込まれて8万人もの悲惨な犠牲者を出しました。
さらに、57万人が捕虜になりシベリアに送られました。

9月2日、東京湾に浮かんだアメリカの戦艦ミズーリー号の上で降伏文書の調印式が行われました。
日本は太平洋戦争を「降伏」というかたちで終えました。

昭和20年8月15日の終戦の詔書

「朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑、非常の措置を以もって時局を収拾せむと欲、茲ここに忠良なる爾臣民に告ぐ。…。」に始まる昭和天皇による終戦の詔勅が昭和20年(1945年)8月15日正午にラジオ放送を通じて国民に伝えられました。
玉音放送の「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」の言葉を、伏して傾聴している国民の姿が、映像として今も残っています。この映像がテレビ等を通じて広く知られたこともあり、今日ではほとんど終戦の象徴的な文言として扱われています。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
昭和史をできるだけ詳しくと思いながら書いてきましたので、随分な長文になってしまいました。

少し時間をおいて、「昭和史(戦後編)」も書きたいと思っています。

posted by tontonton at 09:36| 広島 ☀| Comment(0) | 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月13日

お墓参り

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墓参からの帰り、久しぶりに「ささき亭」に寄った。
午後2時を過ぎるので、予め電話を入れておく。
気持ちよく応じて下さった。




いつものように、おまかせランチ。
メイン料理はプラス100円で、チキンからでポークに変更できる。

ポークソテー特製ソースかけ
トマトとズッキーニの洋風春雨炒め
冷たい茶わん蒸し
みそ汁
香の物
古代米入りごはん

夏野菜がふんだんに使われていて美味しかった。

2015.8.13-2.jpg食後の珈琲を飲んで帰途に。








posted by tontonton at 17:07| 広島 ☔| Comment(0) | 豊栄日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月12日

家人と二人で「そば夕食会」

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今月の「そば夕食会」はお休みと決定していた。
月に一度の事なのだが、そばを食べられないことはやはり寂しい。
数日前に横川橋 康次郎を予約して家人とでかける。

おまかせ料理は、旬の野菜や果物、魚貝類で楽しませてくれた。
盛りつけも美しく、器も料理にとても良く似合い魅力的に見せている。
冷たい料理が主体でのなか、温かい一番出汁での吸い物も魅力的だった。
もりそばで〆る。
デザートは小さく切ったスイカに白ワインでからまたゼリー。
美味しく頂けた。家人も満足してくれたようだ。

posted by tontonton at 11:56| 広島 ☔| Comment(0) | 蕎麦食べ歩き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月09日

文藝春秋―芥川龍之介追悼号・復刻版

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定期購読してる月刊誌「文藝春秋」がいつもの月より早めに届いた。
そして、2日後に予約しておいた芥川龍之介追悼号「復刻版」も届いた。
定期購読者に限り、この復刻版が400円で購入できる。
もちろん、復刻版も書店で販売されるが1冊1200円と安くない。

追悼号は文藝春秋創設者の菊池寛が友の死を悼み文壇のスターたちを集めて編み上げた、まさに芥川賞の原点となる一冊。初めての、そして今回限りの復刻版だそうだ。
芥川龍之介遺稿の他、山本有三、谷崎潤一郎、菊池寛、武者小路実篤、横光利一、柳田國男ほかの著名作家の寄稿で編集された貴重な文献である。
昭和2年9月号として発刊され、約200頁で定価は35銭(送料は1銭半)となっている。

少しページをめくってみたが、読めない文字もたくさんある。
時間をかけて、ゆっくり味わいながら読むことにしよう。

通常の文藝春秋9月号には、先日発表された芥川賞受賞作品が全文掲載されている。
マスコミを賑わしたお笑い芸人の又吉直樹の「火花」と羽田圭介の「スクラップ・アンド・ビルド」の2編が掲載されている。今号は特に分厚く、何だか得をした気分だ。

先日、直木賞受賞作品・東山彰良の「流」も買ってきた。
お盆に読める書籍が沢山ある。なんと幸せなこと。

posted by tontonton at 14:23| 広島 ☁| Comment(2) | 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月06日

被爆70年、義母を偲び…

8月6日になると義母から聞いた「桃の話」を毎年、思い出します。以前、私のブログにも掲載しましたが、被爆70年の記念日の今日、書洩らしていたことも含めて改めて投稿します。

8月6日の奇跡−桃が救った命

昭和20年8月6日午前8時前、マサエは長女の征子を自転車に乗せて、八丁堀の美容院に向うところでした。いつもはマサエの義母のキミが家にいて征子の世話をしていましたが、丁度、実家の江田島に帰っていたため、2歳の征子をひとり置いておく事ができないので、毎日店に連れて行っていたのです。

この時、出かけに、親戚の叔父さんが桃を2個持ってきてくれました。食べるものがなくて、誰もが餓えている時代の果物はとても貴重でした。それをしまっておくため家に戻ると、近所のおばあさんが訪ねてきました
マサエは、一瞬考えましたが、その2個の桃をおばあさんにあげることにしました。店に出かける時間なので、「おじいさんと二人で食べんさい」と言うと、「今日はおじいさんがおらんけえ、今、ここで食べてもええか」と言われて、仕方なく家に入れたのだそうです。

マサエは、長女とそのおばあさんを連れて家の中に戻りました。2つの桃を差し出すとおばあさんはとても喜んで、申し出た様に、その場で1個を食べ始めました。おばあさんは、美味しそうにその桃をゆっくり味わいながら食べたそうです。おばあさんが桃を食べ終わって出かけようとしたその時、ものすごい大音響が響き渡りました。8時15分、原爆が投下されたのです。

マサエの義母が家にいたら、親戚の叔父さんが桃を2個持ってこなければ、近所のおばあさんが訪ねてこなければ、マサエがおばあさんに桃をあげてなければ、おばあさんがおじいさんと食べるためにすぐ持って帰ったら、おばあさんがその桃をその場で食べたいと言わなければ、いつものように8時には八丁堀の美容院に到着していた時間です。

いくつもの事が重なり合って、八丁堀に向かわなかったのです。
爆心地からすぐの距離にある八丁堀の美容院にいれば、8時15分には跡形もなくなっていたはずです。
マサエの優しさといくつもの命運が、長女の命とお腹の中の長男の命、そして自分の命を救ったのです。
これだけの偶然が重なり、3人の生命を救いました。まさに奇跡としか言いようがありません。

長女の征子は私の妻です。もちろんマサエは義母です。
義母は2005年の12月にこの世を去りました。その1年前に、義母から直接聞いた話です。このことは私の妻もこの時初めて詳しく聞いたそうです。
戦時中、食べ物のない時世に、自分は食べなくともという優しさが、3人の命を救いました。

被爆70年の原爆記念日の今年、改めて多くの人にお伝えしたいと思い書きました。

posted by tontonton at 08:00| 広島 ☀| Comment(0) | 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月04日

やまだの案山子

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豊栄に行く途中、白木農園の圃場の少し手前にたくさんの案山子が。
この時期になると、ここの案山子がいろいろな表情で出迎えてくれる。
毎年、楽しませてくれて、ありがとう。

posted by tontonton at 17:35| 広島 ☀| Comment(0) | 豊栄日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月02日

夏祭り

昨夜は自治会の夏祭りだった。
6つの自治会連合会が毎年8月の第一土曜日に行う。
昨夜も7時半過ぎに開催されている運動公園に出かけた。

2015.8.1-1.jpg













近年、この住宅団地も少子高齢化が進み子供の数が随分減った。
だが、こうして祭りに来てみると沢山の子どもたちに会える。
元気な子供たちに出会えるだけで嬉しくなれる。

カラオケや盆踊りなど変わり映えのしない夏祭りだ。
もう少し若い人たちが参加できるものに変えられないだろうか。

2015.8.1-2.jpg







祭りの人気は屋台に集まっている。
食べ物の屋台が多い。
一番の人だかりは「ボールすくい」。
昔ながらの「お面」の屋台は暇そうだったが、懐かしく感じる。
雰囲気だけ味わって30分ほどで帰ってきた。


posted by tontonton at 15:35| 広島 ☀| Comment(0) | 高陽日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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