2010年03月26日

迷走を続ける鳩山内閣に想う

2010年度予算が24日成立して、鳩山首相は「ひとつひとつの予算が一人一人の実感となっていくと期待している」胸を張ったが、民主党による政権交代で国民が期待したことは殆ど実現していないし、その姿さえ見えなくなっている。
政権公約で成立したのは「子ども手当法」「高校授業料無償化法案」のみである。国民が最も期待した「天下りの根絶」や「無駄の徹底的排除」「透明性」などは全く期待できそうにもない様子だ。
政権が発足して半年以上が経過したが、この内閣が何をどのようにやりたいのかその姿が全く見えてこない。
鳩山首相はこの政権交代を「平成維新」だと言った。確かに半世紀以上続いた自公政権からの政権交代は維新と呼ぶにふさわしい体制の一新だが、鳩山政権が目指す国家像が全く見えないままズルズルと進んでいるのは、「海図なき船出」と称された「明治維新」の新政府によく似ている。

十五代将軍徳川慶喜は山内容堂らの建白を受けて「大政奉還」を決意し、「辞官納地」等を経て戊辰戦争の最中に新しい政府が成立した。旧体制打倒の新政府軍を率いる人たちはその前から、新しい国家はどうあるべきかの相談を始めてはいたが、各藩に自治が任され地方分権で国が成立し、その体制が260年間上手くいっていたものをいっぺんに壊して国民にどうやって理解させるか難しい問題だった。新政府の主要なメンバーは薩摩や長州や土佐出身の下級武士たちで、政治のせの字も知らない人たちばかりだったからでもある。策略を練ったり、陰謀を凝らしたり、刀を振り回したりの喧嘩沙汰は得意でも、本当の意味の国家づくり、目配りのいい政治に対しては疎い人たちが多かった。

「上からは明治だなどといふけれど 治まるめい(明)と下からは読む」
お偉い方たちは明治だ、明治だとさかんに言っているが、下々の人間から見ると、とてもこれでは治まるまいと、無能の新政府の惨憺たる状態を詠んだ狂歌が当時のドタバタをよく現わしている。平成の狂歌を詠むとしたらどうなるのだろう。
そうは言いながら、五稜郭の戦いが終わるまでには多くの血が流されたものの、革命ともいえる版籍奉還、廃藩置県、地租改正条例などの政策は無血で次々と断行していった。

昨日、亀井郵政改革相と原口総務相が発表した郵政改革法案の最終案について、首相は「了解してない」といい、亀井氏は「OKと言った」と言っている、との報道が今日の紙面のトップを飾った。
沖縄の基地問題、公務員改革、そして郵政改革など重要政策で首相の指導力不足が問われている。調整役となるはずの官房長官の無能ぶりも露呈してきた。さらに、小沢幹事長の独断専行にも、世論はもちろんのこと民主党内からも異論が出始めた。
鳩山首相は、できることと出来ないことをはっきり見極め、国民にその道筋を明確に示す時期に来ている。鳩山首相ののんきな性格も気になるが、チームとして内閣が総合力を発揮できるようにすることが第一。心地よい言葉や美しい言葉は聞こえてくるが、言葉と行動がつながっていない。
この国のコンセプト、長期基本方針を作るという問題意識が欠落しているこの政権。総司令官はまず進むべき方向を示すのが最も大切なことである。政権をとって満足してしまったのか、政権病に取りつかれてしまっているように思える。政権交代をした時期には輝いていた表情も曇ってきた。次々と出てきた金銭疑惑、また、鳴り物入りだった目玉政策の見直しを余儀なくされるなど挫折感も少なからずあろうが、こんなことでめげてもらっては困る。目先の不人気を怖がり、支持率の上下に一喜一憂することなく日本の繁栄に繋がると信じることを懸命にやるべきである。
夢にまで見た政権に就いて、変質しまいかけている民主党をもう一度「病」から立て直す勇気を振り絞って欲しい。

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2010年03月13日

87歳の学長も熟大生

熟大卒業ョ.jpg東広島熟年大学の卒業式に出席した。今日は東広島市の各地の中学校で卒業式も多く行われていた。そんな関係で、いつもなら学長の式辞の後に東広島市長の来賓の祝辞が入る予定だが、掛け持ちの市長はこの時にはまだ到着していなかった。
式は坦々と進行してゆき、終わり近くになってようやく市長が現れた。事務局の人達もヤキモキしながら待ったことだろう。
東広島熟年大学の学長は87歳になる。24年前から熟大の学長を務め、自らも熟大生として8講座を受講してきたそうだ。そして、現在も一つの講座を受講しているので、学長であると同時に熟大生でもある。
ステージに上がるにも職員の多少の手助けが必要だが、頭はシャキッとしている。歳を重ねても頭と心と身体が動けば、いつまでも現役で活躍できるという、熟年大学の学長としては見事なお手本を披露していることになる。いくつになっても楽しく、穏やかな気持ちで人の輪の中にいることができるのは幸せなことだと感じた卒業式だった。
213名が巣立っていった。

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2010年03月11日

『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』―「密約」の陰には…

「密約」とは、簡単に言ってしまえば、文書のない暗黙の合意や了解である。昨日の新聞は、日米間の「密約」を検証してきた外務省の有識者委員会が9日、岡田外相に、核持ち込みの「密約」があったという報告書を提出したと報じていた。
密約の存在を一貫して否定してきたこれまでの政府の主張は覆った。岡田外相は政権交代の成果だと胸を張ったが、新たな課題も出てきた。今回明らかになった核持ち込みに関する日米の「暗黙の合意」は、非核政策を堅守する日本と、核抑止力を確保したい米国とのせめぎ合いの産物だった。その「合意」が崩れ、今後、相反する両国の立場をいかに両立させるという課題である。
今回の有識者委員会の報告では「密約」の問題ばかりがクローズアップされているが、この「密約」の陰には、沖縄返還を何としてでも実現させたいという当時の政府の熱い想いがあったことが欠落していると思う。その事について、10日発売された月刊誌「文藝春秋4月号」の巻頭文に掲載された作家・塩野七生さんの「『密約』に想う」が、良く言い表している。原文のままを掲載(一部分)。

「密約」が成されたからこそ、沖縄は、そこに住む人々とともに日本への帰還が実現したのだと、私は思っている。
そして、この「密約」の意味するところは、佐藤栄作首相の密使としてニクソン下のアメリカ政府と交渉した当事者である、若泉敬が書き遺した著書の表題、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』で言いつくされていると思う。「他策」などはなかったのだ。だからこそ、ナカリシと信じながら、密なる約束でもするしかなかったのである。
対外的には、国際上でも例の少ない、平和裡での返還という難事を実現させようとしている。国内的には、その9年前には60年安保があった。もしも密約が知れようものなら、マス・メディアがまず騒ぎ、それにあおられたデモが、再び国会前を埋めたろう。もちろん、60年安保で岸内閣がつぶれたように、佐藤内閣もつぶれたろう。だが、その何よりも、沖縄の日本への帰還は、またも実現から遠のいたにちがいない。他策なかりしを信じながら、ウソをつくしかなかったのである。
ルネサンス時代のイタリアの思想家マキアヴェッリは、次のように言っている。「天国に行くのに最も有効な方法は、地獄へ行く道を熟知することである」これが庶民だと、なるべく悪いことには近づかないようにして生涯を終える程度の理解で充分だが、指導者となるとそうはいかない。たとえ自分は地獄に落ちようと国民は天国に行かせる、と考えるような人でなくてはならない。その覚悟がない指導者は、リーダーの名にも値しないし、エリートでもない。
「密約」の当事者たちのウソも、地獄に落ちる覚悟までは大げさでも、断腸の想いでやったことにちがいない。私には、この当事者たちの生き残りを呼び出して詰問することからして、礼儀を欠く行為に思える。法的には正しくてもそれだけで突き進むのは、人間世界を知らないか、感受性に欠けているか、のどちらかだろう。いや、この両方かもしれない。ゆえに、無駄で終わるだけでなく醜悪でさえある。
しかし、80年代に入って以後もずっとウソをつきつづけたのは別の問題になる。この時代の日本の指導者たちは、他策なかりしと信じたからウソをついたのではない。国民どころか自分が先に天国に行きたいという卑しい自己保全か、単なる無知か怠惰で、知らんぷりをきめこんできたにすぎないのである。
だが、われわれ国民のほうも、無罪ではない。その後の30年間、マス・メディアも国民も、臭いものにはフタで来たのだし、冷酷な国際情勢にも眼をつぶって、無知で怠惰で安楽に過ごしてきたのである。今「密約」問題を取りあげてトクすることがあるとすれば、政府も野党もマス・メディアも国民も、全員が現実を直視する必要に目覚めることだろう。北方四島がいまだに返還されないのも、密約づくりができなかったから、であるかもしれないのだから。

「装備の重要な変更に関する事前協議」は、歴代の外務次官が冷戦末期までメモの内容を歴代首相に報告していたという。冷戦が終結してもなお公開しなかったことは、「情報隠し」という問題に繋がる。ただ、今回の公開の意義も正しく受け止める必要があると考える。
「公文書」は公務員が業務上作成する書類だが、外務省や他の省庁でも書類が紛失したといって都合の悪いものは出さないことがある。すべての省庁が「公文書」をすべてきちんと保管しておけば、今回の問題ももう少し早く解決したはずである。公文書が一公務員の裁量によって保管方法などを決することができない厳格な法律も整備しておく必要があるのだろう。

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2010年03月09日

春の大雪

2010.3yuki-1.jpg側溝に填まったトラック
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昨夜は2週間ぶりに豊栄の家に泊まった。薪ストーブで芯まで暖まりながら読書を存分に楽しみベットに入った。
今朝7時頃、目を覚ますと一面の雪景色。降り方が少し気になっていたが、そのうち止むだろうと朝食を終えてのんびり構えていた。ところが、10時半を過ぎても雪の降り方はますます強くなるばかりで止みそうな気配はない。庭を見ると20センチは超えている。ユウゼン欅も春の湿った雪の重さに悲鳴を上げている。
パソコン同好会は1時半だが、このまま降り続くと車で移動できなくなる。熟年世代の方にはこの道を移動するのは無理だと考え中止することに決めた。協力者のA講師と同好会の責任者に連絡を取り、今日の講習を取りやめて、後日日程を変更することを緊急連絡網で連絡してもらうことにした。使用する会場にもこのことを伝えてホッとしたが、この間も雪は間断なく降り続いていた。
広島の家に帰ろうと駐車場に出てみると、車の上には見事なほどに雪が積もっている。車の雪下ろしから始まった。だが、地面にも同じだけの積雪があり、雪かきもしなければ車は動きそうにない。雪かきスコップで、ザッと雪かきをして車をスタートさせたが、2メートス進んでタイヤが空回りをしはじめた。スタッドレスタイヤを装着しているからと甘く見たが失敗だった。猛烈な雪が降る中で車を降り、再度雪かきをする。前輪タイヤの前と後輪の後ろの雪を搔きだし、再び運転席に。しかし、また1メートルあまり進んでストップ。再々度の雪かき。3度繰り返したあと、やっと走り出すことができた。緩やかな下り坂になっているので、雪を掻き分けながらも県道まで出ることができた。
県道はいろは坂ほどではないが、かなり曲がりくねった坂道である。用心しながらゆっくりと車を走らせる。少し走ったところで写真のトラックに出会う。対向車線を越えて右側の側溝に填っている。運転手も諦めていなくなっていた。さらに走っていると、今度は大型トレーラトラックが進行方向の左の側溝に深々と填っていた。その後ろには、トラックや乗用車が十数台連なっていた。
広島市内まで帰ってみると雪は屋根に薄く残っている程度だった。

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2010年03月04日

地産地消の味噌づくり教室

味噌づくり2010-1.jpg味噌づくり2010-2.jpg






今日は白木農園のイベントの中でも人気の高い「味噌づくり教室」が開催された。ご夫婦での参加もあり、総勢は38名、賑やかで楽しい教室になった。
大豆は良く洗って2日間水に浸けたものを各自が持ち寄り、圧力鍋で煮るところから始めた。大豆はもちろん白木農園で栽培されたものだ。また、塩入合わせこうじもJA広島市管内産米と国内産麦を使った100%国内産で、まさに、地産地消の味噌づくりだ。
圧力鍋も8個用意されていたので、これだけの参加者がありながらとてもスムースに進んだ。
持参した大豆を水洗いし、圧力ザルに入れ、500mlの水を入れた圧力鍋を火にかける。沸騰してから20分中火で煮てから火を止め、圧力を下げる。
大きいボールに大豆を移し、500mlの湯ざましを加え、ポテトマッシャーでつぶし、人肌くらいまでさまし、塩入合わせこうじをいれてきれいにかき混ぜる。野球ボール大に丸めた味噌を用意した容器の中に空気を抜きながら押し込むように入れてゆく。容器の上部に付いた味噌をきれいにふき取り、35度の焼酎を霧吹き、ラップで空気を遮断し、塩を置いて蓋をしっかりすればできあがり。この様な工程を経て、一人分の味噌ができあがるまでの時間はおおよそ40分弱。これだけたくさんの参加者がありながらお昼前にはすべての味噌ができあがった。
一人分の味噌は約4kg。この味噌は、こうじの割合が多いので熟成も早く、8月頃には食べられるようになる。美味しく風味のある味噌が待ち遠しい。


味噌づくり2010-4.jpg味噌づくり2010-3.jpg
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2010年03月02日

九十の手習い

先週と先々週の2週にわたって6回のパソコン講座が開催された。豊栄町の地域教育課が主催する講座で、初級者を対象にしている。その講座の講師を引き受け、テキストもすべて作成した。Windowsの基本操作からはじまって、Wordの操作やデジカメ写真のCDへのコピーなど、テキストは40ページにもなった。
最も苦労したのは、WindowsはXP、Vista、7と3種類あり、Wordも2003と2007があるから、それぞれパソコンを持参する人達に分かりやすく作成しなければならない。インターフェイスをビジュアルで取り込み作り上げた。
12名の参加者だったが、Windows7のパソコンを持参した人も2人いた。Vistaが4人で、残りの6名がXPである。プロジェクタを切り換えながら、それぞれの操作について講習を進め、6日間の日程を終了することができた。

この講習会の参加者は幅広い年代の方たちで構成されるが、今回の中には89歳の人がいた。この方は以前の講習にも参加されたことがあるが、「多くのことを忘れているから参加しました」と応募された。この年齢になっても、まだ学ぶ意欲をお持ちであることに強く心を動かされた。
六十の手習いならず、九十の手習いである。89歳になって、もう一度最初からやり直してみる、このことが一番のアンチエイジングなのかもしれない。いつも穏やかな表情で、柔やかにあいさつしてくださる。本当に頭が下がる。

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