2009年07月30日

三次の鵜飼見物

三次鵜飼−2.jpg三次鵜飼−0.jpg
右の写真は満月の夜
ホームページから拝借




7月の「そば食べ歩き会」は、三次まで出かけて鵜飼見物をすることが決まっていた。
昨日は午前9時半広島駅新幹線口に集合し、小型バスで三次市に向かう。参加者は15名。前日の予報では午後からは雨の確率が高く、北部では雷を伴って強く降るとのことだった。傘はもちろんだが雨合羽まで用意している人もいた。殆どの参加者は今夜の鵜飼は中止になるだろうと思っていた。

三次で最初の訪問先は「奥田元宋・小由女美術館」。三次市吉舎町出身の日本画家の奥田元宋と夫人で人形作家の小由女さんの作品を一同に集めた美術館である。幻想的な元宋の画と佳麗な小由女さんの作品を1時間半にわたり見学した。
この美術館は満月の夜にはロビーの一部を開放して水面に映る月を楽しむことができる。ロビーから見ること出来る池の水面に光を映している風景は奥田元宋の「待月」を再現し、モチーフとなった「月」にちなみ、満月の夜は午後9時まで開館時間を延長する。この時にはお茶会やコンサートなどイベントも開催されているそうだ。

昼食は和庵(なごみあん)で割子蕎麦を頂く。繁盛しているお店で美味しい蕎麦だった。

午後からは、三次藩祖・浅野因幡守長治が1633年に建立した浅野家の菩提寺を訪問。忠臣蔵ゆかりの寺で、境内には大石内蔵助良雄手植えの「枝垂れ桜」や47士の義士出立の姿を模した「義士堂」、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩の正室・阿久利(後の瑶泉院)の「瑶泉院遺髪塔」などがある。地元のボランティアガイドの方が丁寧に説明してくれた。
その後、みよし風土記の丘 県立歴史民俗資料館行く。ここは、国の史跡浄楽寺・七ッ塚古墳群を中心に、古代住居や古民家、資料館が整備され、自然と文化の調和した美しい史跡公園である。立派な建物の中に多くの展示物があったが、学芸員が説明してくれたのは「企画展」の「もののけ」の展示室で「お化け」の話ばかりだった。少し薄暗いせいなのか説明の途中で眠くなってきた。
見学の最後は三次ワイナリー。ワインの試飲とお土産の購入。ずっと曇り空だったが、この頃から雨が降り始めた。

むらたけ本店でアユ料理を含む豪華な夕食を堪能し、鵜飼の会場に向かう。夕闇が迫っていたが雨は上がり西の空は薄桃色に染まっていた。15名が乗船する屋形船はとても大きい。ところがこの船にはエンジンがない。3人の船頭さんが前と後ろに分かれて長い竹竿で漕ぐのである。ただ、降雨続きのこの日は水かさが高く鵜匠もその実力が発揮できなかったようだ。約50分のショーだが、白い鵜をめぐって楽しい会話が乱れ飛んだ。

この旅行を立案してくださったMさんのかゆい処に手が届く配慮があり、参加者全員が心から満足のゆく楽しい一日となった。帰りのバスの中までその余韻は続いていた。


三次鵜飼−3.jpg
鳳源寺でガイドの説明を聞く
夕食時のアユの塩焼き
白い鵜もいた鵜飼



三次鵜飼−4.jpg三次鵜飼−1.jpg
posted by tontonton at 18:03 | TrackBack(0) | 白木農園 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月28日

スティーグ・ラーソンの 「ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士」を読んで

ミレニアム1〜3.jpg
ミレニアム1−ドラゴン・タトゥーの女
ミレニアム2−火と戯れる女
ミレニアム3−眠れる女と狂卓の騎士




物語は、「ミレニアム2 火と戯れる女」のラストシーンから始まる。頭を打たれたリスベット・サランデルが救急ヘリで運ばれ、手術される場面からである。ジャーナリストのミカエルたちが、人身売買と強制売春の調査を続けていくうちに、ミカエルの仕事仲間が殺され、あろうことか、その容疑者として女性調査員のリスベットがあげられてしまう。警察の追及をうけたリスベットは逃亡しながら事件の謎を解いていくと、そこに彼女自身の過去の闇が広がっていた。

第一部「ドラゴン・タトゥーの女」を読んだとき、リスベットは家庭の事情で学校に通えなかったこと、また、誰かに性的虐待をうけたこと、それにもかかわらず凄腕のコンピュータ・ハッカーに成長したことがわかったが、その詳細は明かされぬままだった。過去が不明のクールで恰好いい女性に見えたが、その彼女の激烈な過去が第2部の「火と戯れる女」で明らかになる。

彼女の父親は、旧ソ連の元スパイ・ザラチェンコであり、自分の母親を虐待していた。そのために父親を許さず殺意を抱いたこと、そんな彼女の存在が、ザラチェンコを受け入れた公安警察内部の秘密組織で危険視されて精神病院に収容される。そこから彼女の人生がねじまがり、恐怖と暴力に支配されたものになる。「火と戯れる女」は、そんな彼女の隠された肖像が前面に打ち出され、やがて過去の闇から邪悪な父親と、父親の手配である、凶悪な金髪の巨人ロナルド・ニーダーマンがあらわれ、死闘となる。死闘を繰り広げ、リスベヅトは頭を撃たれ、土中に埋められた状態から這い上がり、ミカエルに助けられ、救急ヘリで運ばれ、手術を受ける。
リスベットは一命をとりとめるものの、入院している病院の同じフロアにはザラチェンコも収容されていて危険を感じていた。また、囚われの身だった二ーダーマンは警察官たちを殺して逃亡をはかる。何よりも事件を重視した公安警察内部の秘密組織、通称"班"が動き出して、非合法的な隠蔽活動を画策しはじめる。

第3作はスパイ小説としての側面も見せている。引退して悠々自適の日々を過ごしている老スパイが登場し、スウェーデンの戦後の政治の歴史を振りかえりながら、いかにザラチェンコを亡命させて旧ソ連との対応にあたってきたかを語る。沈潜した視点での回想と、隠蔽工作の一部始終が面白い。
ザラチェンコ問題を隠すために警察の捜査活動をいかに分断させるのか、さらにリスベットの裁判の進め方、、優位に持ち込むための方策を考え、政治と国家権力と司法の各所にネットワークを作り、ミカエルの周辺で盗聴活動を行ない、証拠品の略奪を図る。周到さと大胆な行動、意外な方向へと向かうストーリーはサスペンス味もたっぷりである。スパイ小説の側面ばかりではなく、終盤になると、今度はリーガル・スリラーの側面も強まる。
殺人未遂容疑そのほか様々な罪をきせられたリスベットの裁判がはじまり、ミカエルの妹の弁護士アニカ・ジャンニーニが法廷に立ち、検察側と丁々発止とやりあっていく。絶対不利な被告のリスベット側がいかにして得点をあげ、裁判を有利に進めていくのかが詳細に語られ、少女時代からの宿敵ともいっていい悪徳精神科医との対決は息がつまるほどだ。

「ミレニアム」3部作は、本格ミステリー、ハードボイルド、ノワール、警察小説、サイコ・スリラー、スパイ小説、そしてリーガル・スリラーと各ジャンルが注ぎ込まれている。しかもそのレベルは極めて高く、ひとつひとつが意外性と迫力に富んでいる。
しかも、国家をくいものにする資本主義の矛盾、ジャーナリズムの正当性、女性への暴力、人身売買、強制売春といった社会的なテーマを正面からとらえ、物語の昂奮をたっぷり味わうことができる、極めて社会性の濃い、豊かな現代小説である。
単行本ソフトカバー、1〜3部、各上下巻全6冊。文句なしの読み応え。

posted by tontonton at 18:23 | TrackBack(0) | 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月25日

順調な大豆の生育―除草と土寄せ作業

大豆2009.7.24-1.jpg22日する予定の白木農園の作業が降雨のため昨日に変更になった。急きょ決定されたにもかかわらず18名もの参加があった。明け方雨がパラつき、作業が心配されたがメールを開くとMさんから「小雨決行」の連絡が入っていた。
午前9時から「大豆の除草と土寄せ」と「蕎麦を播種する畑に苦土石灰を撒く」班に分かれて作業する。会員のYさんに依頼し土壌診断をしてもらった結果、苦土石灰が極端に不足していた。蕎麦を播種する畑を耕耘する前に苦土石灰を撒いておかなければならない。蕎麦の播種は8月1日の予定にしている。苦土石灰を撒く作業はすぐ完了した。
だが、除草と土寄ができたのは写真の畑1枚だけで、他の畑は先日の雨で土が湿っていて作業することができなかった。今年は特に降雨の日が多くその量も平年を大きく超えている。雨が降っていなくとも土の乾燥具合で作業ができないことも多い。
この日の除草と土寄せの作業も、土の乾きが良くなく土が重たい。通常よりかなり力を要する作業になった。滴る汗がそれを語っていた。だが、昨日は、時折小雨も降っていて、この季節にしてはあまり暑くないコンディションで作業ができたので助かった。

最近は休憩時間が楽しみになっている。参加する会員が休憩時間に補給する水やお八つをいろいろと持参してくれるのだ。
昨日は、Iさんが大きな種無しスイカを2個、Oさんが小河原地域特産のオクラと星型やハートの形をしたキュウリ、Hさんがミニトマトを持ってきてくださった。冷やしたスイカやキュウリ、トマトが五臓六腑にしみわたる。これを頂きながら楽しい会話が始まる


大豆2009.7.24-2.jpg大豆2009.7.24-3.jpg甘くておいしいスイカ

小河原オクラは生で

星型・ハート形キュウリ

posted by tontonton at 16:04 | TrackBack(0) | 白木農園 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月22日

「リンゴの唄」に希望の光が…


半藤一利さんの「昭和史−戦後篇」を読んで

半藤一利さんの「昭和史」は昭和の初期から1945年の終戦までで終わっている。しかし、昭和もその後1989年まで続くわけでこれだけで昭和史を終えてはいけないと、編集者の山本明子さんらにまたもや執拗に要望され、半藤さんは「戦後篇」を語ることになった。

8月20日に灯火管制が解除され電燈や窓を覆っていた黒い遮蔽幕は取り除かれ、建物から外に光が洩れパァーッと明るくなった頃から人々の気持ちが落ち着いてきていたが、同時に不安も満ちていた。
戦いに敗れ「鬼畜米英」と憎悪を抱くように喧伝された日本人の前に、連合軍の最高司令長官マッカーサーが丸腰にサングラス、コーンパイプを手にしてゆうゆうとタラップを降り立ったのは8月30日厚木飛行場だった。それからGHQによる占領政策が始まる。
戦後篇の前半はGHQによる占領期の日本が奔馬の如く勢いよく、こまごまと語られている。戦後日本の基本的な骨組みが形成された時代である。
財閥の解体、農地改革、労働改革など戦後日本の基本的な改革となった占領政策をGHQは無策の日本政府にどんどん押しつけてゆく。選挙制度や教育改革、言論および新聞の自由なども同様に…。
GHQの最大の目的は、日本から軍国主義、国家主義的なものを徹底的になくすことで、参謀本部は廃止され、陸海軍の解体司令に続き、主要戦犯39人が逮捕される。

闇市が大繁盛するなか飢餓はきわまり、精神を喪失しかけた日本人に僅かなあかりを灯したのは並木路子の「リンゴの唄」だった。
♪〜赤いリンゴに口びるよせて〜♪

白熱した憲法草案論議もGHQ憲法草案を受け入れ、「象徴天皇」でおさまり、「戦争の放棄」という世界で初めての憲法が制定された。
世界情勢が激変し、やがて冷戦がはじまったころ、昭和21年5月3日に「東京裁判」が始まる。
昭和22年4月の総選挙で与党の吉田茂が率いる自由党は143議席をとって第1党となった社会党に敗れる。吉田茂は総辞職し潔く社会党の片山哲に政権を渡すのだが、この内閣もわずか9カ月足らずで総辞職に追い込まれ、そして再び吉田内閣が登場する。それから昭和29年まで長期政権になる。
吉田茂は軽武装と経済復興に主眼を置いた政策を推し進めるが、憲法を改正して再軍備し昔ながらの国家を作ろうと思ってる人たちもいた。その御大将が公職追放を解除された鳩山一郎で、石橋湛山、三木武夫らも政界に戻ってくる。鳩山一郎は自由党ができたときの総裁で、当然、総理大臣になれるはずだったが、追放が決まって復帰するまで吉田茂に譲った経緯がある。追放解除で出てきた鳩山は脳溢血で倒れるが、鳩山派は吉田に「政権を寄越せ」と迫るが、吉田は突っぱねる。
昭和28年の「バカヤロー」解散の後、自由党は分派とまっぷたつに割れ、保守は改新党との三つに分かれていた。そして自由党内の鳩山派、改新党と日本自由党が吉田打倒のため合同し、日本民主党が成立する。そこにはA級戦犯から解放されて密かに身を沈めていた岸信介も含まれていた。その後のゴタゴタを経て吉田茂は総裁を降りる。
昭和30年2月の総選挙の結果、民主党185人、自由党112人、左派社会党89人、右派社会党67人ほか労働党4人、共産党2人という勢力分布になる。
社会主義勢力に脅威を感じるとともに「吉田を追いおとした」という保守の仲間意識と憲法改正に必要な三分の二が欲しい鳩山は「保守合同」を画策し、1955年自由民主党として成立する。社会党は落ちさらばえて名もなくなったが、この時は自由民主党と社会党という2大政党という構図になっていた。これが平成5年まで続く「五十五年体制」である。
しかし、鳩山内閣が目指した憲法改正と再軍備は手が届かずに終わるが、日ソ国交回復は調印まで漕ぎ着けた。
準A級戦犯として巣鴨にいてGHQの政策変更で岸信介は、A級戦犯7人が処刑された翌日、昭和23年12月24日巣鴨を出所する。だが公職追放されてすぐには復帰できず追放解除まで待ち、28年の総選挙で政界復帰を果した彼が、昭和33年総理大臣になる。岸信介はアメリカに押しつけられた安保条約の不平等の改正に心血を注ぐ。
岸内閣が安保推進を目指し、治安の締め付けのため警職法を出したため、世の中がギスギスしていた時、「ミッチーブーム」が起こる。皇太子殿下のお妃に、皇后になるために生まれたような清楚で美人の正田美智子さんが登場し日本中を沸かせた。
その2年後、安保闘争で騒然とする中、安保条約が成立する。安保条約の日米の批准書が交換された直後岸信介は退陣を表明する。
デモデモデモに明け暮れた岸内閣の後は、所得倍増論の池田勇人内閣。そして、東京オリンピックと新幹線。
ガンを患っていた池田総理は総辞職し、佐藤内閣が成立する。佐藤栄作は「沖縄が祖国復帰しないかぎり、戦後は終わっていない」と沖縄の返還に情熱を傾ける。
ビートルズの来日、ベトナム戦争、中国の文化大革命などの世界情勢の中で日本では公害問題や環境問題が表面化していた。水俣病が公害と認定されたのは昭和43年で、今年ようやくその解決に目処が立った。
大学が産業界や経済界と結びつくようになって「産学協同反対」運動がおこり、「授業料値上げ反対」運動が連鎖し「全学共闘会議」(全共闘)が組織され、激しい学生運動になってゆき、東大・安田講堂の落城、浅間山荘事件で騒乱は終わる。
昭和45年の万国博覧会は万博史上最高の6421万8770人の入場者を記録。
作家の三島由紀夫が「楯の会」のメンバー4人とともに自衛隊市ヶ谷駐屯地の総監室に乗り込み大演説をぶったのもこの年だった。三島は「憲法改正・天皇親政の復活」を訴えるが、賛同者もなく割腹自殺を計る。
そして翌昭和46年沖縄が返還され、終戦が完結した。

その後の内閣
田中角栄・三木武夫・福田赳夫・大平正芳・鈴木善幸・中曽根康弘・竹下登・宇野宗佑・海部俊樹と続き昭和が終わる。

posted by tontonton at 21:46 | TrackBack(0) | 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月16日

男の料理教室は3回目のキッチン

7-15料理教コ1.jpg熱心に説明を聞く講習生
白木農園の会員で構成される男の料理教室で3回目のキッチンに立った。料理に取りかかる前にG先生から詳しい説明を受ける。注意事項の中でも特に「まな板はいつも清潔にして使うこと」、これは心掛けたいと思った。
今日のメニューは「肉じゃが」「焼きなすの煮びたし」「トマトと豆腐のじゃこサラダ」である。肉じゃがは、我が教室で使用する料理本の一番初めに登場するメニューである。日本人の誰もが好きな家庭的な料理のナンバーワンなのだろう。肉じゃがの美味しい作り方はぜひマスターしたいと望んで取りかかる。
今日使用した食材のトマト、ナス、キュウリ、ジャガイモ、ネギ、ニンニクなどはすべて会員が育てたものを安価で提供してもらう。新鮮で安心して食せるのが何よりだ。
G先生の説明の中で新しく学んだことは「トマト、ナス、キュウリなどの夏野菜は体の温度を下げる」ということである。気温の高いときに収穫できる野菜が人の体温を調節してくれるという素晴らしい植物との関係に感動を覚える。

今日は会員のOさんが「根芋」を持参してくれた。根芋は春に里芋の親芋を5pほど覆土して植え、その上から籾殻を70pかけて育て、3ヶ月あまりで収穫するのだそうだ。根芋の長さは長いものだと40〜50pはあるだろう。下段の左側の写真の手前に見える白色でウドのような形のものが根芋である。これを適当なサイズに切りだしの素と麺つゆの味付けだけで簡単に煮つけて食べた。これもシャキシャキ感があり美味しかった。

肉じゃがを作っている時「鍋返し」に挑戦してみたが、鍋の深さにも関係したのだろう「煮汁あり」の肉じゃがでは上手くゆかなかった。ニンニクなどをキツネ色に炒めるには、見た目がキツネ色になった時にはもう遅いということも分かった。
今日は予定のメニューに加えてキュウリの酢の物、根芋の煮付けなど5品とご飯。お昼から楽しさいっぱい、腹いっぱい。さて、我が家のキッチンに立てるのは、いつ頃に?


7-15料理教コ2.jpg7-15料理教コ3.jpg
posted by tontonton at 14:27 | TrackBack(0) | 白木農園 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月13日

太田川クリーンキャンペーンに参加

太田川キャンペーン1.jpg太田川キャンペーン2.jpg






昨日の日曜日、広島県北部から広島湾に流れる太田川沿いを一斉に清掃する活動に参加した。
官民でつくるクリーン太田川実行委員会が企業や地域のボランティアに呼びかけて毎年この時期に行われる「太田川クリーンキャンペーン」は今回で17回目。環境への関心の高まりも受けて昨日は約2万3千人が参加した。
この日は広島、東広島、廿日市、安芸高田の4市と、府中、安芸太田、北広島の3町の太田川水系河川でそれぞれの地域の人たちが決められた区間を清掃した。私たちの担当区域は、安佐北区にある高瀬堰の約5qの洪水敷きと土手道である。
午前8時半から芸備線の玖村駅近くに集合した約100人が軍手とゴミ袋と火ばさみを受けとりゴミの収集に当たる。参加者の中には小学生の親子連れや中学生も交じっていた。心配された雨も降らず、薄曇りの作業するには絶好のコンディションだった。
私たちが担当した区域は、地元の人たちが日頃からゴミ袋を持って歩いている姿をよく見かける場所で、ゴミは思ったより少なかった。
しかし、年1回この時期に実施される清掃活動で、流域全体では40トン近いゴミが集まるという。アユ漁の盛んな太田川流域、生きものの多い美しい川としていつまでも守り続けたいものである。
ゴミが少ないこともあり、1時間弱で終了した。帰りにお菓子と飲み物のお土産を頂いた。

posted by tontonton at 16:09 | TrackBack(0) | 高陽日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月12日

半藤一利の「昭和史」を読んで

この書は半藤さんが編集者の山本明子さんに執拗に説得されて「昭和のシの字も知らない人たちのために、手ほどき的な授業を…」というわけで、録音スタッフと一緒に半藤さんの話を聞き、それを単行本として発刊したものである。だから、学者や研究者の様な難しい言葉は出てこなく、とても読みやすくなっている。
「昭和史」(1926-1945年)と「昭和史・戦後編」(1945-1989年)の2冊、1000ページ余りで構成されている。

内容を簡単に要約してみた。
ペルリが来て1865年日本は「開国」した。それから3年後の明治元年から世界の国々に負けない国づくりが始まり、無理を承知で背伸びしながらも国家建設を懸命に進め、なんとか近代国家をつくることに成功した。
明治の日本の人たちが、とにかく一人前のしっかりした国をつくろうと頑張った成果の表れとして、明治27年、28年(1894、1895年)の「眠れる獅子」といわれたアジア随一の強国清国(日清戦争)に勝ち、さらに明治37年、38年(1904、1905年)世界の五大強国の一つといわれた帝政ロシアとの戦争(日露戦争)にかろうじて勝つことができた。そして世界の国々からもアジアの中の日本という国を認めてもらえるようになった。
つまり国を開いてからちょうど40年間かかって、日本は近代国家を完成させた。そして、その国をちょうど40年後の1945年にまた滅ぼしてしまう。

日本は日露戦争に勝って、ロシアが持っていた満州の権利を全部肩代わりした。ひとつが関東州、つまり遼東半島の殆ど全部を清国から借り受けて自由に使える権利をもらった。さらに南満州鉄道の安東から奉天までの経営権も貰う。
獲得した鉄道の安全を守るために軍隊を置くことになり、のちの関東州の旅順、大連に駐屯した隊に司令部を置くようになって「関東軍」と呼ばれるようになり、次第に増やす方策をとるようになっていく。
資源の乏しい日本は資源供給地として満州を注目するが、鉄や石炭はたくさんあったが石油はなかった。また、人口がどんどん増えて問題が起こっていた狭い日本には、人交流先として満州が重要視される。
このような大きな役割を持つ満州を、日露戦争に勝ったことによって日本は手に入れ、明治の終わり以降、これをどうやって経営してゆくかが政治の中心課題になってゆくのである。
それと並行して、日本で学んだこともある孫文や蒋介石ら有能な軍人による辛亥革命が起き、中華民国という新しい国が出来上がることになる。
ヨーロッパで第一次世界大戦が始まっていたどさくさに紛れて、日本は南満州鉄道や関東州の租借その他、すべての特殊権益の期限を100年くらい伸ばす「対華二十一カ条の要求」を無理やり認めさせた。そこから日本に対する反感が大きくなってゆく。
中国の大軍閥の親玉が乗った汽車を日本軍が爆破して暗殺した「張作霖爆殺事件」をうやむやにした頃から日本の破滅の道が始まる。
陸軍中佐・石原莞爾の「世界最終戦争論」という大構想により、国力と戦力を蓄えてゆく方向に向かってゆく日本。その石原莞爾が関東軍の作戦参謀として旅順に赴任する。それからは「満州をどうすべきか」次から次へと作戦構想が東京の参謀本部に届くことになる。さらに石原莞爾は「張作霖爆殺事件」でのマスコミの反発を反省し、今度何かやる時はマスコミを上手く使おう、というマスコミ対策も始める。
そうした中、関東軍の陰謀による柳条湖事件が起こる。これを日本の新聞は「奉天軍(中国)の計画的行動」と関東軍擁護にまわった。新聞がいっせいに太鼓をたたき始めラジオが臨時ニュースを流し、どんどん読者や国民を煽ってゆくことになり、満州ではぐんぐん戦争が遂行されてゆく。
五・一五事件で完全に息の根を止められてしまった政党政治に変わり、軍人の暴力が政治や言動の上に君臨する「恐怖時代」が始まるのである。
国際連盟から脱退して孤立の道を歩くことになるのだが、「日本が連名で孤立しているというのなら連盟の外にいても同じ孤立ではないか、憐れみを乞うようなことはするな、いい加減にしろ」これが毎日新聞(当時は東京日日新聞)の記事だ。
これ以降、軍国主義への道が整備されてゆく。さらに、昭和11年2月26日に岡田啓介首相らを襲撃する二・二六事件が勃発する。これ以降の日本は二・二六の再発(テロ)をちらつかせて、政・財・言論界を脅迫し、軍需産業を抱きかかえ、国民をひきずり戦争体制へ大股で歩き出した。
盧溝橋事件、上海事変をへて中国共産軍と日本軍が戦う全面戦争になってゆくが、これに国民は狂喜し、日本中で「勝った、勝った」の提灯行列が行われた。
深まってゆく戦争の中でも、ドイツ大使による和平への道もあったのだが、当時の近衛文麿首相は(日本新党を結成した細川護煕元総理の祖父)は、中国が飲むわけもない要求「勝ったのだから賠償を寄越せ」などと言いだし、軍部顔負けの強硬さで関東軍の戦意を復活せしめた。
ワシントン軍縮会議から離脱し、孤立した日本はアメリカから船や戦車をつくる鉄屑や軍艦や飛行機の燃料となる石油を輸入していたが、全面輸出禁止なってしまった。海軍の将校は「まさかアメリカがそこまでするとは思ってもみなかった」と危機管理意識のないことを言っているのには驚くばかりだ。
ノモンハン事件という国境紛争がソ連との大戦争になって凄惨な戦いになっていった。日本は軍の30%以上の死傷者を出し壊滅的な大損害を受けるのである。この反省をもとに低水準にあった火力戦能力を向上することになっていったが、その火力戦能力の向上が図られないまま、2年半後に太平洋戦争に突入していくのである。

12月8日、「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」山本連合艦隊司令長官の命令が出て真珠湾攻撃が始まるが、「開戦通告」は外務省の怠慢と無神経が災いし、結果的に1時間遅れという「だまし討ち」という破廉恥な事態になった。
真珠湾の勝利から束の間の「連勝」があり、ひたすら日本国民は大勝利に酔ってしまう。しかし、栄光から悲惨への逆転はあまりにも早く来た。
昭和17年6月5日、日本の空母4隻対アメリカ空母3隻の戦いとなったミッドウェー海戦は、アメリカの奇襲攻撃を受けて南雲中佐率いる日本の4隻が全滅し多数の戦死者が出た。ところがこのミッドウェーでの大敗は一切公表されなかった。
続いてガダルカナル、インパール、サイパンなどの悲劇から特攻隊出撃へとなだれ込んでいくのである。
日本全土への空爆、そして、広島と長崎の原子爆弾によって「ポツダム宣言」を受諾し終戦となった。

約500ページに及ぶ半藤さんの「昭和史」はここまでで、これ以降は「戦後篇」になる。
日中戦争から太平洋戦争まで沖縄や本土の非戦闘員や南の島や海で空しく散っていった人たちは310万人ともいわれている。特攻の作戦での死者は陸軍、海軍あわせて4615人にものぼる。

半藤さんは「これだけの死者が20年の昭和史の結論です」と言っている。
さらに、「むすびの章」では次のように語りかけている。
よく「歴史に学べ」といわれます。きちんと読めば、歴史は将来に大変大きな教訓を投げかけてくれます。反省の材料を提供してくれるし、あるいは日本人の精神構造の欠点もまたしっかりと示してくれます。同じような過ちを繰り返させまいということが学べるわけです。ただしそれは、私たちが「それを正しく、きちんと学べば」という条件付きのもとです。その意思がなければ、歴史はほとんど何も語ってくれません。

この書には半藤さんの感情も多少は入っているが、自分やその家族、知人が体験した歴史ではそうなっても不思議ではない。私達の年代は学校では昭和史を学ぶことは殆どなかった。私達が学んだ歴史には人物が登場しなかった。この「昭和史」には、誰がどのようにかかわり、その結果としてどのように動いたのかが書かれている。歴史は人間の英知や愚味、勇気と卑劣、善意と野心のすべてが書き込まれてはじめて多様で面白い物語になってゆく。
この書は特に戦争を知らない若い人たちに読んで欲しいと思う。

posted by tontonton at 13:09 | TrackBack(0) | 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月09日

「どげにもならん」人たちばかり

2007年の新語・流行語大賞を受賞した(宮崎県を)「どげんかせんといかん!」と発した東国春英夫知事の言葉は、国民の多くの支持を得たが、いまや「どげんかせんといかん!」のは日本そのものになってきた。
そして、そのまわりで「どげんかせんといかん!」と騒いでいるのは「どげにもならん」人達ばかりであるというのも皮肉なものだ。

6月下旬神戸市で行われた講演で森元総理は次のように語った。「麻生さんは全く縁のない人を幹事長にしているから、とんでもないことがいっぱい起きる。細田さんはまじめだが、選挙を率いるタイプではない」。この発言を党役員人事へのゴーサインと受け止めた麻生総理は一気に党人事断行に傾斜した。そこに相談相手の菅義偉選対副委員長と安倍晋三元首相が乗っかってきた。安倍さんも麻生総理に「舛添幹事長」などの人事案を提案して、大幅な内閣改造と党人事の刷新で政権を浮揚させて、総選挙に臨むことを画策していた。
ところが数日後、森元総理は態度を豹変させる。「細田幹事長らは『政局より景気』だと一所懸命やってきた。選挙もこのメンバーで訴えるべきだ」そして、「細田君は、誰が選んだんだ。君でしょ。君が選んだんでしょ」とたたみかけ、麻生総理もうなずくしかなかったという。
政局の節目節目に登場してはキングメーカーを気取る森元総理。だが、森元総理の助言が功を奏したことは皆無で、いくつもの政権をつぶしたといわれている。森元総理の助言を聞けば聞くほどその内閣は短命になるという。
ノミの心臓とサメの脳みそを持つといわれる珍しい政治家の森喜朗さん。小泉さんには袖にされ、安倍さんには裏切られ、福田さんには無視され、いまは、盟友だった中川秀直さんにも見捨てられてしまった。
結局、森元総理の囁きに耳を傾けてしまった麻生総理は、兼務になっていた2閣僚のポストの補充のみで、断行という言葉からは程遠い人事に終わった。この人事によって麻生総理は全く権力がないことを露呈してしまった。
「麻生さんは人がよすぎて人の意見を聞き過ぎる。それも最後に会った人の意見が麻生さんの意見になってしまう」、更迭された鳩山前総務相の言葉が寂しく響いてくる。
佐藤ゆかり、武部勤、塩崎恭久、片山さつき、など反麻生の網は広がるばかりだが、この人たちも、麻生政権が誕生した際は、麻生カラーを出して人気沸騰させてから選挙と挙って担いだ者ばかりである。
「どげんもならん政治家」たちばかりが跋扈しているが、東国春知事が国政に打って出ても「どげにもならん」と思う。いや、かえって混迷を深める結果になるだろう。

posted by tontonton at 17:13 | TrackBack(0) | 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月05日

反省をしているようには思えない「反省」の弁

佐藤優の「国家の罠」を読んだ後に、図書館で偶然に「反省―私たちはなぜ失敗したのか?」(鈴木宗雄・佐藤優共著)に目がとまり借りてきてた。鈴木宗男と彼の「懐刀」であった元ノンキャリア外交官・佐藤優の二人の当事者の反省の弁だからと思いながら読み進めたが…。

「国家の罠」は、2001年4月小泉内閣が爆発的な人気のもとに誕生し、外務大臣として 田中眞紀子が任命された。人事問題を発端に外務省との間に亀裂が入るが、外務省は鈴木宗男を利用して田中眞紀子の排除を目指す。さらに次は、外務省に強い影響力を持つ鈴木宗男をも排除しようと、国後島のいわゆる「ムネオハウス」やアフガニスタン復興支援会議へのNGO出席問題をめぐって、国会で鈴木宗男と共産党のやりとりや辻元清美の猛烈な追及が連日テレビの前に晒された事件を「国策捜査」として検事とのやり取りなどを克明に書いた佐藤優自身の潔白を訴えた書である。
6月4日のブログには民主党の小沢代表の政治資金問題と絡めて国策捜査の問題を書いた。佐藤優の「国家の罠」の内容も半分ほどしか信じられない内容だと思っていた。
先日、佐藤優は最高裁での有罪が確定し、外務省は休職扱いになっていたが失職した。

「はじめに」と「おわりに」でそれぞれ自分の思いを述べているが、途中の対談部分はお互いの傷の舐め合いであったり、如何に愛国心を持って熱心に仕事に臨んだかという自惚ればかりで呆れるほどだ。が、男の嫉妬、裏切り、嘘、陰口、媚へつらい、足の引っ張り合い、カネ、女、スキャンダル、つかい込み、恫喝、悪評、醜聞、セクハラなど、書いてある内容が少しだけ事実と捉えるだけでも官僚の醜さが分かる。
二人の自慢話は別にしても、外務官僚たちのたかりの行為や想像を絶するカネの汚さなど無責任で自己保身に汲々とする官僚たちの行動と外務省の際立った無能ぶりだけは良く理解できる。こんな外務官僚たちが最前線にいては日本外交は停滞を招き、国益を大きく損ねることになっていることはこの二人の弁を待たずとも判る。
日本の外交の無能さは昭和の初期からまだずーっと続いている。こんな無能な外務官僚を私たちは高い給料で雇い続けているのかと思うと…!!!。

posted by tontonton at 17:22 | TrackBack(0) | 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月02日

腰砕けの麻生人事

麻生総理は自らの手で衆議院を解散するため、東京都議選後の「麻生降ろし」を封じる起死回生策として練った人事構想は腰砕けに終わってしまった。総選挙での論戦力を問われる幹事長人事を真剣に考えていたようだが、「包囲網」を敷かれ、党役員人事は断念した。阿倍氏や菅氏ら一部の側近だけを相手に人事構想を練る首相に、政権を支えてきた派閥会長や党幹部たちは露骨に不快感を示した。一昨日夜、森元総理と会談したが、NOを突き付けられてあきらめたようだ。
ここまで騒いだが、兼務していた大臣の補充人事だけになった。国家公安 沖縄・北方相に林幹雄氏、経済財政相に林 芳正氏を充てた。

日本記者クラブでの会見でも「そう遠くない時期に…」と東京都議選の前の解散をにおわしたり、党人事についても記者の質問を否定しなかった。ところが、昨夕の記者団の取材に答えた麻生首相のコメントが滑稽だ。「私の口から『党役員人事をやる』という話は、ただの一度も一言も聞いた人はいないと思います」と述べた。
これでは、麻生総理の発言は何を言っても聞き流すだけのもので良いことになる。言い換えれば発言しないことと同じである。一国を率いる総理の発言がこんなに軽くて全く意味を持たないものであっても良いのだろうか。
「サミット花道論」や都議選の引責辞任論も現実味を帯びてきた。

posted by tontonton at 15:42 | TrackBack(0) | 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。