2009年03月23日

「出雲そば」食べ歩きの旅


そばの旅1.jpgそばの旅2.jpg献上そば 羽根屋 伝承館店
島根県立美術館の茜色の夕日






月に一度、そばを食べ歩く会に参加している。平成19年からスタートして1年半余りになるが、6〜7名から始まったこの会も少しずつ増えてきて現在のレギュラーのメンバーは十数名なっている。
広島のこだわりの「蕎麦屋さん」を訪ね歩いてこの3月が19回目になるのだが、まだ、出雲そばを食べていなかった。もちろん、出雲そばのお店は広島にもあるが、いっそのこと出雲に出かけて食べようということになった。日帰りでも可能だが、一泊して「出雲そば三昧」の旅にしようと決まった。旅行日程は会の代表者のKさんご夫婦に作成していただいた。
この旅のタイトルは「「出雲の蕎麦屋さん巡りと歴史・文化に触れる旅」とした。
3月18日午前7時30分に広島駅新幹線口に集合し、15名の参加者とともに小型観光バスで晴天の中を出雲に向かう。

11時半ころ、まず、最初に訪れたのは「献上そば 羽根屋 伝承館店」。
創業は江戸時代末期。明治40年に後の大正天皇に献上したことが店名の由来になっている。本店は出雲駅の近くにあるのだが、私たちは「出雲文化伝承館」の美しく手入れされた日本庭園の中に佇む伝承館店で、・ながらの製粉と手打ちの伝統に守られた少し黒めの出雲そばの「そばコース」をいただいた。

午後からは、出雲大社に参拝した後、島根県立「古代出雲歴史博物館」を見学する。見学する前に学芸員のスライドを使った簡単な解説があり、見どころをしっかり理解して見学できた。中央ロビーに展示されている「宇豆柱(うずばしら)」に圧倒されながら、遥か平安時代に空に聳え立つ出雲大社の姿を想像する。多くの青銅器と黄金の太刀や出雲国風土記の世界にも引き込まれた。
出雲の歴史博物館で歴史に触れた後、松江の「島根県立美術館」に向かう。この島根県立美術館は「茜色に染まる美術館」として有名で、宍道湖に沈む夕日が楽しめる。閉館時間は日没の30分後となっている。
私たちが訪れた時は、孫運にも開館10周年記念展の「フランス絵画の19世紀展」が開催されていた。ここでもKさんが手配してくれていた学芸員の解説の後に自由に鑑賞に移った。19世紀の画壇の本流を占めていたアカデミスムの画家たちの流れに、反駁しあうように生まれたロマン主義や印象主義など、当時では前衛的な画家たちの動向と互いに浸透しあいながら、豊穣な19世紀のフランス絵画の世界を織り上げいた様子を鑑賞することができた。アカデミスムのダヴィット、アングル、ブグロー、印象派のドラクロア、ミレー、マネ、ルノワールなど世界の美術館から集められて80数点の作品を鑑賞することができたことは孫運だった。
この日の日没は18時18分。6時頃からは1階のレストランでコーヒーを味わいながら日没を待つ。6時過ぎると誰もが芝生の庭にカメラを持って出た。一度鮮やかな閃光を放った夕日は帯状にかかる黒い雲の中に隠れた後、再び宍道湖の湖面にかかる乳白の霞の中に茜色の真ん丸な姿で湖面を茜色に染めながら現われてくれた。

夕日に心を引かれながら松江宍道湖温泉のホテルに向かう。美味しい料理の宴会は楽しい会話で夜遅くまで続いたことは言うまでもない。

翌日の19日も朝から5月を思わせる陽気だった。松江城を囲むお堀から7〜8人乗りの遊覧船で松江市内を眺める「堀川めぐり」からこの日の観光が始まった。そして、「小泉八雲 記念館」、「武家屋敷」、を見学し、「明々庵」でお抹茶の御点前で一服の後、「松江城」を見学、昼食の「八雲庵」に向かう。八雲庵では鴨南蛮の温かい出雲そばと冷たい割りごそばを頂き、食後に再び抹茶が…。

昼食後は奥出雲の「奥出雲葡萄園」を見学した後、奥出雲おろちループを通り、三次の手打ちそば「わらべ」で夕食をとる。奥出雲から三次までの時間の読み違えもあったが、午後9時頃無事に旅を終えることができた。実に楽しいそば三昧の旅だった。


そばの旅3.jpgそばの旅4.jpg堀川めぐり―松江城を望む
八雲庵の庭を散策する
posted by tontonton at 18:38 | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月07日

むかしばなしで経済政策を読む

むかしむかし、あるところに小さな国がありました。領土はせまく資源に恵まれなかったものの、勤勉でまじめな国民の力で世界有数の経済大国にのし上がったそうです。
けれども経済運営でちょっと失敗をしたために、ずるずると十数年以上も不景気が続きました。国の経済をあずかる官庁(オオクラとかザイムとか名称ははっきりしません)と、お金を発行する機関(ニチギンというようです)が失敗を続けたからだという考古学者もいます。
それでも長い停滞のあとに、すこしは景気がよくなりました。ここでニチギンの人たちは経済に出回るお金の量を減らそうとしました(「金融引き締め」といわれたそうです)。反対した人たちもいました。なにしろまだ物価が下がるデフレのさなかでしたから。けれども、当時の中央銀行の人たちはどうもデフレよりも別のことを恐れていたようです。その別のことがなんなのか、いまでも考古学者たちは首をひねっています。金融を引き締めたときに政府は反対することもできたはずだといいます。わずかばかり残された記録によると、反対しなかったようです。
「ケイザイツウ」と呼ばれた大臣が賛成したからだそうです。この大臣がそう呼ばれた理由もまだ解明されていません。
金融の引き締めを企画した人は、ひょんなことからニチギンの総裁になりました。金融引き締めに賛成したケイザイツウの人のほうは、ザイムも含めて重要な閣僚のポストを三つもかけもちするほどになったのです。
この国の景気は悪くなりました。金融を引き締めたのだから驚くに値しません。引締めに賛成した人たちは、この不景気が海の外からやってきたと言いはりました。サブプライムというよくわからない言葉だけが残っています。
でも、この大臣は最初「ハチに刺されたようなもの」でたいしたことはないと言っていたのですが、途中から「最大、最悪の経済危機」と言いかえたそうです。そのあいだに景気はますます悪くなっていきました。せっかくわずかばかりのお金を国民に配ることにしても、「このお金は三年後には返してもらうからね」と念をおす始末です。これでは使う気もなくなってしまうというものです。
えっ、この二人と国民がその後どうなったかですって ? さあ、なにしろかなりむかしの話ですから。(カトー)

これは、今日の日経新聞の経済コラム「大機 小機」に掲載された原文そのままである。
筆者はペンネームで匿名(今日は、カトー)。外部の経済学者やエコノミストが中心だとされている。他の新聞にも類似コラムはあるが、共に分量は少なくやや物足りない。「大機 小機」の内容は玉石混淆で主張もてんでバラバラだが、筆者の考えが生で生まれるこのコラムは面白く、毎日注目している。
景気の急速な悪化で消費は冷え込み、雇用調整も急激に進んでいる。経済をめぐる論争がもっと活発になってもいいはずだが、新聞間で論争が起こる気配はない。匿名だから書けることもあるだろうが、経済記者の経済論争ももう少し活発になってもいいと思うのだが…。「ぶら下がり取材」ばかりで紙面を埋め尽くしてる記者に求めるのは無理なのだろう。

posted by tontonton at 17:53 | TrackBack(0) | 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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