2008年02月29日

スタグフレーションの兆し

米国では景気の減速に加え、原油高騰などでインフレも進行しており、景気の停滞と物価上昇が同時進行する「スタグフレーション」も懸念され始めました。
26日のニューヨーク商業取引所で、指標となる原油先物価格は、一時、1バーレル101.43がまで上昇し、最高値を更新しました。26日に発表された1月の卸売物価指数も、エネルギー価格の上昇などで前期比1%上がり、インフレの兆候が出ています。本来なら景気が減速すれば消費が落ち込み、物価は値下がりに転じます。それが、景気は後退しているにもかかわらず物価は上昇しています。
不況下でも物価上昇が止まらなかった1970年代のスタグフレーションとの共通点を指摘する声も出始めました。そのひとつは、「窮乏指数」の上昇です。消費者物価上昇率に失業率を単純に足したものですが、国民の生活の苦しさを指数として表しています。
70年代の米国の窮乏指数は長い間2ケタが続いていましたが、クリントン政権以降はおおむね1ケタで安定していました。それが07年11月は9.01、12月が9.08、今年1月は9.18と2ケタ目前にまで上がってきています。

これらの要因は明確です。米国ではサブプライムローンの破綻から消費が大きく落ち込んでいます。ところが、ファンドなどの機関投資家が原油や穀物などを買い漁り価格を異常に上昇させています。原油の値上がりは、工業製品、輸送費、運賃など幅広い分野に波及し、穀物価格の上昇は加工食品がアメリカや日本だけでなく大幅に価格を上昇させ台所を直撃しています。
いまや大企業とファンドが一人勝ちしている状況で、お金が一方だけに流れる現象が拡大し、格差はますます広がっています。物価が上昇してゆく中で、景気刺激のため利下げを続ける世界の中央銀行。ジャブジャブに余るお金は、機関投資家などに還流し、そのお金でまた原油や穀物などを買い漁る悪い循環が世界を覆っています。
インフレを抑えるため金利を据え置くのか、景気刺激のための利下げを続けるのか。FRBを含めた世界の中央銀行の金融政策運営は、さらに難しい局面を迎えています。
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2008年02月27日

ブログ投稿700回記念は、「薩長同盟」の成立日

昨日、星亮一さんの「偽りの明治維新」の読後感をブログに書きました。今日、何気なく旧暦のカレンダーを眺めていると<薩長同盟>と言う文字が目に入りました。江戸時代後期の慶応2年(1866年)1月21日(旧暦)(新暦2月27日)に薩摩藩と長州藩の間で締結された政治的、軍事的同盟である「薩長同盟」が成立した日でした。

幕末の政治の世界で影響力を持った薩摩藩と長州藩は討幕の思想では共通した認識を持っていましたが、西郷隆盛・大久保利通らの薩摩は、1864年(元治元)の会津藩と協力した八月十八日の政変や禁門の変で長州を京都から追放し、第一次長州征伐などで薩摩が長州を屈服させて以来、感情的には敵対していました。しかし、長州、薩摩ともに伝のある土佐藩脱藩の坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋により秘密裏に巨頭会談が進められ、1月21日京都薩摩藩邸で坂本龍馬を介して西郷隆盛、薩摩藩家老の小松帯刀と長州藩の木戸孝允が倒幕運動に協力する6か条の同盟が成立しました。

「禁門の変」で会津に同盟を呼びかけたのは薩摩藩でした。薩摩は会津と協力して、長州を追い返すことに成功します。しかし、その4年後、今度は薩摩が会津を裏切り、長州と同盟を結び、孝明帝が崩御するとすぐさま「鳥羽伏見の戦い」が始めました。この時、十五代将軍慶喜は「賊軍」になるのを恐れて、江戸に逃げ帰ってしまいます。幼い帝(明治天皇)を擁立した薩長側に錦旗があがったのです。さらに、幕府よりであった土佐藩の甘い言葉の乗せられた将軍徳川慶喜は、幕府の軍備強化に当たっていた勘定奉行の小栗上野介や京都守護職である松平容保に何の相談もすることもなく、わが身の生き残りを考え、土佐の口舌を自分に都合よく判断し、「大政奉還」を了承してしまいます。

孝明帝から宸翰(しんかん=天皇からの手紙)を受け取った容保は、「王城の護衛者」としてひたすらな思いで御所を守り続けますが、時代の急テンポな推移を読取る事ができず、最後には宗家である徳川将軍にも裏切られます。そして、会津に帰った松平容保を待っていたものは、官軍による会津討伐でした。会津藩は砲煙のなかに官軍を迎え、少年、婦人さえ刀槍を持って戦いましたが、徹底抗戦のはてに敗れました。

昨日は、星亮一さんの「偽りの明治維新」を通して「会津戊辰戦争」について書きましたが、奇しくも昨日に続く今日がその「偽り」の始まりの日だったというのも、何か因縁のようなものを感じました。
また今日が、私がブログを書き始めてちょうど700回目の投稿日にあたります。「薩長同盟」と「700回記念」、何の関連もありませんが、私のとっての記念日になりました。

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2008年02月26日

星亮一さんの「偽りの明治維新」を読んで

以前、司馬遼太郎さんの「王城の護衛者」を読んで、明治維新の折、京都守護職・松平容保と会津藩が辿った悲惨な運命に心を打たれました。先日書店で、星亮一さんの「偽りの明治維新―会津戊辰戦争の真実」に出会いました。
星亮一さんは、福島民報記者、福島中央テレビ報道製作局長などを歴任し、作家になった方です。出身は仙台ですが、福島での暮らしが長かったからでしょう、会津について探求され、会津に関する書籍を数多く出版しています。

会津戊辰戦争は日本史上稀に見る悲劇です。会津の人々は、長いあいだ朝敵の汚名に耐え、一世紀以上にわたり、その怨念を胸に秘めてきました。若松を追われ、青森の下北半島や北海道に移住させられた人々の末商には、とくにその思いが強かったと思います。死者の埋葬も許さず、財宝や女性を略奪した官軍の所業は、闇に葬られ、誰にも知らされず、教科書にも書かれることはありませんでした。星亮一さんの「偽りの明治維新」には、この様な会津が辿った百数十年を連綿と書き綴っています。

NHKのテレビ番組「そのとき歴史が動いた」に、初めて会津藩主・松平容保(かたもり)が登場したのは2007年10月17日のことでした。そのタイトルは「義に死すとも不義に生きず―会津戦争 松平容保 悲運の決断」でした。
星亮一さんは、その番組に出演し、松平定知アナウンサーとともに、「会津が正義を貫くため全員が死をかけて戦いに臨んだ」様子を語りました。

平成19年、山口県出身の安倍晋三総理が在任中に会津若松市を訪れ会津戊辰戦争に関して「長州の先輩が会津の人々にご迷惑をかけた」と謝罪したことがあったそうです。
このとき、会津若松の反応は様々でした。会津若松市長も会津若松商工会議所の幹部も、「遊説でちょっと喋っただけですからね、安倍さんは軽い、軽すぎますよ」と、この発言を肯定的に受け止めることはありませんでした。戦死者が眠る飯盛山や天寧寺にお参りし、焼香すれば、また別の受けとめ方もあったかもしれませんが、遊説のつけ足しでは許せないということだったのでしょう。青森県に移住させられた会津人の末喬は完全否定だったといいます。

私たちが学んだ明治維新の歴史の多くは、、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允ら明治維新の元勲たちは、明治の英雄として教えられてきました。確かにそれも事実の一面でしょう。一方で、正義と信じてそれを貫いた会津の人たちのことも忘れてはならないと思います。松平容保が死ぬまで身に着けて離さなかった孝明帝から宸翰(しんかん=天皇の直筆の文書)には、「朕は会津をもって頼みとしている。一朝有事のある時はその力を借らんと欲するものである」と書いてあり、その宸翰は、いまも松平容保の怨念とともに東京銀行の金庫にねむっているそうです。
いずれにしろ会津と長州のあいだに横たわる溝をうめる、新しい動きもいくつか出てきていますが、天皇を利用して戦争を仕掛けた薩長が官軍で、尽忠報国の会津が賊軍となった歴史の交差、会津と長州の確執はまだ続いているようです。

星さんは「あとがき」を次のように結んでいます。
『ともあれ会津と長州の確執はまだ続いている。会津サイドの壁はきわめて厚く、いまのままだと、あと100年、200年続いていくことになるかもしれない。どういう決着がはかられるのか、それは誰にもわからない。』
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2008年02月25日

味噌作り教室に参加して


みそ2008.2.24-1.jpg昨日の日曜日、毎年の恒例になった行事で、毎年楽しみにしている、農業塾OB会・白木農園の「味噌作り教室」に参加しました。
午前9時からの開始でしたが、9時少し前に着いた時には、この会の人気を物語るように殆どの人たちが来ていました。
数名の会員の方たちの好意で、大豆を洗って2日間水につけておく作業までが完了していましたから、すぐ味噌作りの作業に取り掛かれる準備ができていました。37組分の大豆を洗うのも大変な仕事だったと思います。参加者はご夫婦での参加もあり、37組43数名でした。

大豆はもちろん白木農園で私たちが育てたものを使って作ります。
昨年初夏の播種、夏の暑い時期の除草、土寄せなどの作業、11月の刈り取り、脱穀、選別を経て、今日の味噌を作る大豆になっています。会員全員の汗と労働の結晶です。自分達で作った大豆100%を使って、味噌を作るのですから、こんなに嬉しいことはありません。

講師は毎年のようにJA広島市の方にお願いし、先生の説明の後、味噌作りに取り掛かりました。
今年の味噌作りは昨年より少し変わっていました。それは、大豆を煮るのではなく蒸す方法に変わったことです。その蒸しあがった大豆に、大豆(500g)と同じ量の湯ざまし(500ml)を加え、ポテトマッシャーで潰してゆきます。そこから以降の手順は昨年同様でした。これまで何回もこの味噌作り教室に参加してきましたが、大豆を蒸して作ったのは初めてです。煮ることも蒸すこともそんなに大きな差はないと思いますが、出来上がりが楽しみです。

作業開始から約3時間半、笑顔と楽しい会話につつまれながら、12時半頃には4kgの味噌37個ができあがりました。
参加者の中には、別に麹を買って自宅で更に味噌を作る人も何人かいます。新しく作った味噌は早ければ6月ごろから、遅くても8月頃には食べられるよになるでしょう。


みそ2008.2.24-2.jpg2008.2.24-3.jpg
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2008年02月23日

上官の命令を聞かない自衛隊員

19日未明、千葉県沖で海上自衛隊のイージス艦「あたご」が南房総市の野島崎の沖合い40キロ付近で漁船「清徳丸」と衝突し、乗っていた乗組員の親子・吉清治夫さんと長男の哲大さんが海に投げ出され、行方がわからなくなっている事故は、日本国民に衝撃を与え、大きな問題を投げかけています。

通常、船がぶつかりそうになったら、双方の船が右旋回して衝突を避けるというのが海の上での約束事です。12分前に漁船の存在を確認していながら、衝突する1分前まで自動操舵にしていた事自体も信じられません。テレビのニュースを見ていて、仲間の漁船の乗組員が発した言葉がすべてを物語っていると思います。
「海の男の資格はない」「日本を守れるはずがない」
全く同感です。1隻の漁船さえ守れない自衛艦が、日本の国を守れるとは到底思えません。緊張感もなければ危機意識も全く持ち合わせていないとしか言いようがありません。

この衝突事故があった翌日、たまたま、以前に護衛艦に体験乗船した知人に会っていて、この事故のことが話題になりました。彼が体験乗船したのは、かなり前のことで、イージス艦ではなく普通の護衛艦だったそうですが、その話を聞いて呆れてしまいました。
艦内を案内してもらっているとき、案内している士官にアナウンスで別の指令が入ったそうです。見学者の傍で立ち話をしていた部下に、体験乗船者を上甲板に連れて行ってくれるように依頼したそうです。ところが、その部下たちは、上官の命令を全く無視して何処かに行ってしまったというのです。
後で、知人はその士官に聞いたそうです。「今のは命令違反ではないのですか」と、そうすると「はい」という返事が返ってきました。知人は興味を持ち、「後で叱られるのでしょうね」には、「とんでもない、叱ると辞めてしまうので、叱ることなどできません」「後日カウンセリングを受けることになります」ということだった言っていました。

訓練と言っても形だけだろうと言うことは、容易に想像がつきます。危機意識を持ち合わせていない自衛官に国が守れるはずがありません。5兆円近い予算を使って、「自衛隊ゴッコ」をさせているような気がします。防衛大臣が緊急時の連絡のためGPSの付いた携帯電話を持つように指示しても、誰も持とうとしません。この様に拘束されることが嫌な自衛官はさっさと辞めるべきです。武器を携えている者が命令を聞かなくなるほど恐ろしいことはありません。
知人の話や防衛大臣のコメントを聞いていると、昭和の初期、関東軍が軍令部の命令を無視して中国を侵略し、満州事変などに突入していったことが思い浮かんできます。
自衛隊が必要なことは、国民の大多数が自覚していると思います。自衛隊員には自分たちの役割と責任を再認識すことが求めたれます。すべての隊員を一から鍛え直し、意識改革をする必要に迫られていると思います。
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2008年02月21日

メジロがやって来ます


メジロ2008.2.21-1.jpg我が家に庭の刈り込んだ紫陽花の切り株に古くなったミカンを半分に切り、写真のように刺しておきます。このミカンを食べにメジロがやってきます。先日来、何度もくるのですが、カメラを向けたとたん逃げられてしまいます。
小さなデジカメでズームも3倍ですから、被写体までの距離が遠すぎてなかなか上手く撮れません。今日は自宅の窓ガラス越しに忍耐強く待っているとやっとシャッターを切るチャンスがきました。ズームをいっぱいに伸ばし、3mくらいの距離から撮影したものを拡大してトリミングしたため、ピンボケ状態ですが、私のデジカメではこれが精一杯なのでしょう。
でも、写真を撮ることが目的ではなく、メジロがミカンを食べにやってきてくれることを楽しんでいるのですから、この様な写真が撮影できただけで満足しています。

50円切手でもおなじみのメジロは、全長が12cm前後で、スズメよりもやや小さめです。緑がかった背と暗褐色の羽を持ち、目の周りの白い輪が特徴で、名前の由来ともなっています。
日本で見られる野鳥の中では、小さい部類に入る小鳥でしょうね。食性は雑食のようですが、花の蜜や果汁を好み、育雛期には虫なども捕食するそうです。2羽でやってきて、「チー、チー」という鳴き交わす様子がとても可愛いく、楽しませてくれます。

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2008年02月20日

「歴史」を抹殺する日本の外交官

文藝春秋の3月号に、「インテリジェンスなき国家は滅ぶ」と題した特別対談が掲載されていました。
対談者は、塩野七生(ななみ)さんと手嶋龍一さんです。塩野七生さんは、1968年に「ルネサンスの女たち」で作家デビューし、「ローマ人の物語」など多数のヨーロッパを題材にした著書で知られるイタリア在住の作家です。
手嶋龍一さんはNHKのワシントン支局長などを歴任した外交ジャーナリストで作家です。

このお二人の対談を読んでビックリしました。
いま日本外交の最前線では、犯罪的と呼んでいい重大な事態が起こっています。歴史が書かれていく上で第一級の史料となる公文書が残されていません。事故にあって消失したのではなく、重要な公文書が官僚たちの意思であえて消却され、また、意図的に公文書を残そうとしない、という由々しき行為がまかり通っているのだそうです。
公文書は後世の人たちが歴史を学ぶためには、なくてはならないものです。ところが、いま日本では、その公文書が消されようとしています。外交官が紡ぎだす公電は、やがて歴史の一部になっていきます。にもかかわらず、彼らは保身のために公電を綴ろうとせず、先達が編んだ文書さえシュレッダーにかけるという、歴史に対する背徳行為が行われています。

具体的には、2002年の秋、小泉首相の電撃的な北朝鮮訪問への過程で、日本政府は「ミスターX」なる北朝鮮高官を窓口に極秘交渉を重ねていました。いま外務省には、その秘密交渉を記した公文書が存在しないのです。公文書が公表されないのではなく、そもそも交渉当事者が公電を綴ろうとしなかったのです。機密の保持を名目に、ごく少数の当事者が国家の機密を私有したままです。これでは将来、小泉訪朝を歴史の審判に委ねることができません。公文書が公開されて後世の批判にさらされるのが怖かったのでしょう。
現在の日本では、記録を残すどころか、公文書が極秘裏に破棄されているのだそうです。さらには、先達の外交官たちが刻苦して書き上げた公文書さえ敢えてシュレッダーにかけ、消し去ることまでしているというのです。外交機密を歪んだ形で守ろうとしているということになります。

このことは、情報公開法という法律が引き金になったようです。この法律に基づいて公文書の公開を求められたら、一定の審査を経た上で回答することになります。内容を開示しないまでも、文書の存在自体は認めざるを得ません。文書の存在自体を認めたくないあまり、貴重な公文書を破棄してしまうのです。

正しい歴史を後世の人に伝えたり、後世の人たちが歴史を題材に小説や教養書などを書く場合には、公文書はなくてはならない貴重なものです。対談の中で塩野七生さんのような作家にとって公文書などがとても参考になり、他の記述と比較することができる大切さを話しています。
そのためにも、まず、アメリカやロンドンの公文書館に匹敵するものを日本にも創設することでしょう。そこで一元管理し、その上で、一定期間を過ぎたものは100%全面公開する。書き残すことが下手で、隠すことさえ上手にはできない日本人の習性を逆手にとって、愚直なまでにすべてを明らかにするのです。そのためには、日本人は、「正直な大人」になり、日本は「したたかな大人の国」に脱皮することが必要です。

国境なき時代といわれる現代でも、究極の危機にあっては、国家の存在が大きな意味を持ちます。官にあっても、野にあってもいいから、志を同じくする日本の人々が手を結んで緩やかな連携をとる、そんな姿なき戦略指導部があれば、日本も成熟した国としての希望が持てるようになると考えます。
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2008年02月18日

芥川賞受賞作「乳と卵」を読んで

第138回芥川賞受賞作品・川上未映子さんの「乳と卵」を読みました。
川上未映子さんは1976年生まれの現在31歳、作家に至るまでの人生経験の豊富さに驚きます。高校卒業後、書店員、歯科助手、ホステスなど様々な職業を経験した後、歌手を経て、作家デビューしています。高校在学中にもコンビニで働いたり、工場勤務もしたといいます。
高校を卒業すると大阪の大きな書店でフルタイムのアルバイト店員として勤務し、夜は北新地のクラブホステス、同時に日大文理学部の通信教育で哲学を勉強しながら、バンド活動もやっていたといいます。まるで寝る時間もないほどのスーパーウーマンぶりですが、ホステスをしていたのは弟の大学の学資のためだそうで、数十年前ならいざ知らず、最近では珍しく家族孝行なお姉さんでもあります。
24歳のときにライブを見たビクターの人に「デビューしない」と声をかけられ、東京に出てゆきアルバムも出しますが、全く売れなかったようです。
そして、このアルバムを知ってもらうためにブログを立ち上げます。このブログを読むに堪える文章にするにはと考えるうちに、フィクションや空想を交えて書くというスタイルに行き着き、思い入れのある一人称を使いつつ、読み手に対して、無関係の他人について書いているような印象を与える文章を目指したそうです。「内容を面白くするためなら嘘でもいい」との考えに至ったそうで、すでにそこはもう私小説の世界になっています。
2007年に発表した処女作「わたくし事 イン 歯ー、または世界」がいきなり芥川賞候補になり、今回の二作目の「乳と卵」で受賞しました。
川上未映子さんは十代の後半頃から、自覚的に小説を読み始めたそうですが、家には一冊の本もなく、初めは国語の教科書だったそうで、教科書にはいろんなジャンルの作品が収められていて面白かったと。そのうち、学校の図書館を利用するようになり、文学作品を「あ行」の作家から順に読んだといいます。

「乳と卵」は仕掛けとたくらみに満ちた小説です。物語は、大阪から上京する姉とその娘、二人を迎える妹の三人が過ごす、二泊三日の滞在という短い時間の中にドラマが構築されています。母に対する言葉を失った娘と、豊胸手術のことで頭が一杯の母という課題を最後のところで見事にドラマチックに解決し、抑圧されていた感情を一気に解放するあたり、したたかな伎倆だと思いました。
関西弁を挿入し、息の長い長い文章は無秩序で煩雑に思え、最初のうちはとても読み辛く、途中で読むことを止めようかとさえ思いました。ところが、読み進めてゆくうちにぎりぎりのところで制御されていることに気付かされます。
しかし、読む人にとってはこの「乳と卵」は全く評価しない人もいてもおかしくないと思える一面も持っています。
評価の分かれる芥川賞受賞作だと思います。次回作に期待したいと思います。

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2008年02月16日

「こごりもち(かき餅)つき」に参加しました


かきもちー2.jpg今日は、白木農園恒例の「寒のかき餅つき」に参加しました。午前9時から、簡単な説明の後、参加者26名で始まりました。
5人の会員さんが昨日から、餅つき臼の準備やもち米をすべて洗って用意してくださっていたので、もち米を蒸すところから取り掛かることができました。お米をとぐといっても、2斗のお米ですから想像するだけで大変な事です。昨日の寒さを思うと、米をとぐときの冷たさも想像つきます。

作業はもち米を蒸し、それをある程度まで餅つき機でついておいて、石臼に移して杵でつきます。かき餅を8臼、白餅を2臼、合計10臼です。
会員のHさんが昨年考案した「90センチの長さに切断した雨樋」に、つきたてのかき餅を入れ、形を整え、固まるのを待つアイデア樋が今年も活躍しました。1臼(2升)の餅がその90センチの雨樋にピッタリ納まるのが不思議なほどです。
新兵器のお陰や段取の素晴らしさもあって、作業はスムースに進み、11時半過ぎにはすべての餅ができあがりました。
最後の一臼は、大根おろしをかけて「つきたての餅」を全員で試食しました。まだ暖かく柔らかなお餅に、ピリッと辛い大根おろしを添えた食味は天下一品。あん餅は全員に2個ずつのお土産になりました。
26名の参加者は、かき餅とあん餅のお土産を持って帰宅。1〜2日おいて切って乾燥させ、焼いて食べます。昨年はこのイベントにたまたま兵庫から帰省していた孫娘と一緒に参加したことを思い出しながら帰途につきました。

最近では、かき餅をつく家庭は少なくなったと思いますが、私たちが子供の頃は、各家庭で寒もちをついていました。今日は黒豆を入れましたが、その他に、ヨモギや食紅などを入れ砂糖で味もつけて、薄緑色やピンクの美しい色のかき餅を作り、それを火鉢に網をのせ焼きながら食べたことを思い出します。

かきもちー3.jpgあん餅作り作業とお土産のかき餅とあん餅
かきもちー1.jpg
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2008年02月14日

最愛の3人からのバレンタイン・チョコレート


バレンタイン・デー.jpg今日2月14日、「聖バレンタインの日」に、兵庫にいる孫娘と娘からチョコレートが届きました。いま小学校5年生で、幼稚園の頃から贈ってくれているので、もう7〜8回目くらいになるでしょうか。私にとっては何より嬉しい贈り物です。 
バレンタイン・デーにチョコレートを贈るようになったのは業界の販売促進活動の一貫で、1958年に東京都内のデパートで開かれたバレンタイン・セールで行ったキャンペーンが始まりだそうです。このキャンペーンが始まってからすでに半世紀が過ぎ、今ではバレンタイン・デーといえばチョコレートが象徴のようになっています。半世紀も続けば国民の間で定着しているということでしょうね。バレンタインのチョコレートの売り上げは500億円以上だそうですから、業界のこの時期にかける意気込みは理解できます。また、そのお返しにと3月14日の「ホワイトデー」という続きを含めると、チョコレートの売り上げの大半がこの時期に売れると考えられます。

ある調査によると、バレンタインデーに贈るチョコレートは、本命チョコが53%だそうで、本命がいないと回答した方は31%とか。対して義理チョコは1人当たり3〜5個渡す方が多いようです。
チョコレートの予算は、本命チョコには2600円、義理チョコには800円くらいが相場だそうで、男性は渡されたチョコレートを見れば本命なのか義理なのか判断できるというわけです。ただ、この数字に惑わされてはいけません。
若い人たちにとっては、「きっかけを作るチャンス」として、良いイベントなのかもしれません。好きな人がいて告白したいと思っている人にとっては、ドキドキの待ち遠しい日なるのでしょうから…。

孫娘に刺激されたかのように、数年前から妻からも机の上にそっと置かれるようになりました。最愛の3人からのチョコレートをとても嬉しく思います。
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