2007年01月31日

日本映画の復活!!

日本映画製作者連盟(映連)は、毎年1月に前年の映画産業に関するデータを発表しています。今年は昨日30日午後2時から、東京・銀座東武ホテルにて記者発表を行いました。

それによりますと、2006年の映画界は、邦画の興行収入が21年ぶりに洋画を上回る逆転現象が起きました。「M:i:III」「スーパーマン リターンズ」「X−MEN:ファイナルディシジョン」などハリウッド娯楽大作が思ったほどの大ヒットとはならず、大きな“転換点”を感じさせる1年だったようです。

それにひきかえ、邦画は年初から好調なスタートでした。「THE 有頂天ホテル」(三谷幸喜監督)は、「まさかこんなに大化けするとは誰も予想していなかった」(東宝)という興収60億8000万円の大ヒット。前年11月末から公開されていた「ハリーポッターと炎のゴブレット」と入れ替わるようにトップを維持し、注目を集めました。

また、アニメ「ゲド戦記」(宮崎吾朗監督)や「日本沈没」(樋口真嗣監督)、「涙そうそう」(土井裕泰監督)、「デスノート」の前・後編(金子修介監督)などヒットが続出しました。
昨年末公開の正月映画、SMAPの木村拓哉主演の「武士の一分」(山田洋次監督)は現在も大ヒット上映中です。

日本映画製作者連盟発表の2006年統計です。

入場人員: 1億64,227千人(前年比102.4%)
興行収入:2,025億53百万円(前年比102.2%)
邦画収入:1,077億52百万円(前年比131.8%)
洋画収入:  948億02百万円(前年比 81.5%)

興行収入の50億円以上の映画は下記の通りです。

1.ゲド戦記    76.5億円
2.海猿      71.0億円
3.有頂天ホテル  60.8億円
4.日本沈没    53.4億円
5.デスノート   52.0億円
6.男たちのヤマト 50・9億円(2005年)

邦画がこの様に元気なのは嬉しい事ですね。企画や脚本しだいで観客を動員できる事が映画関係者の中で広がっているのだと思います。映画はひとつの文化です。芸術性にばかりこだわらず、楽しいものを提供してもらいたいと思います。ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)
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2007年01月30日

Windows XP 高速化の特効薬?

古いパソコンが電源ボタンを押してもすぐ起動せず、「F1キーを押しなさい」というメッセージがいつも表示されていました。間もなく購入して5年の歳月が経過しようとしているところでした。
SONYの製品なので、SONYにメールで問い合わせると、ハードディスクに問題がありそうなので、修理依頼を購入したショップから持ち込んで欲しいと連絡を受けました。5年間の保障付きでしたから、データをすべてバックアップした上で、さっそく購入した電気店に持ち込み修理を依頼しました。

2週間あまりで修理が完了し、帰って来ました。ハードディスクと液晶画面に問題があったとのことで、それが交換されていました。もちろんデータはすべて消え、購入した時と同じ状態です。修理費は無料でした。

修理前は、ウイルス対策ソフトのせいもありますが、電源ボタンを押して起動するまでに6〜7分かかっていました。しかし、修理を終えたパソコンは起動までに時間がなんと半分以下になりました。

パソコンは使っているとどうしても起動が遅くなります。デフラグやスキャンを実行したり、ソフトを使ってキャッシュなどの掃除をしても起動はそんなに早くはなりません。

やはり、Windowsの高速化の特効薬は、OSのリカバリですね。
ただ、OSをリカバリすると、設定など面倒な事がたくさんあります。ソフトウェアのインストール・アンインストールを繰り返したことなどにより、パソコンの動作が不安定になってしまった場合などにも、これが最高の特効薬と分かりました。

今回も購入した状態で帰ってきましたので、すべての設定をやり直しました。
Windows XPのSP2のインストールからはじまり、無線LANの設定、そしてWindows Updateの実行、ウイルス対策ソフトのインストールにUpdate、メールの設定、Officeのインストールなどなど…。
すべて終了するのに半日近くかかりました。
ウイルス対策ソフトをインストールしても起動はそんなに遅くはなりません。パソコンが新品になったようで、とても気持のいいものです。古いパソコンでもまだ十分使えます。
苦労した甲斐のあった1日でした。

Windows Vistaの発売日の今日、Windows XPをリカバリしていたわけです。Windows Vistaも一度体験してみたいのですが、かなり先のことになるでしょう。

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2007年01月29日

藤原伊織さんの「ダナエ」を読みました

本
藤原伊織さんの「ダナエ」を読みました。ダナエの他にも2つの小作品が収録されています。
ミステリー小説なので内容は書きませんが、とても面白いと思いました。

藤原伊織さんは好きな作家で、すべての作品を読んでいます。
一番面白いと思ったのは、なんといってもデビュー作で、乱歩賞と直木賞をW受賞した「テロリストのパラソル」です。もう10年近く前の作品ですが、この本を読んで以来、藤原伊織さんの大のファンになりました。
流行作家のように年間あまり多くの作品を発表しませんが、それだけに内容の濃いものが多く、中でも「てのひらの闇」、「雪が降る」、「 シリウスの道」などは好きな作品です。

藤原伊織さんの小説の中に登場する男性像が好きです。内に熱い情熱は秘めているのですが、物静かで、強さの中に優しさを持っている人物が多いのです。

藤原伊織さんの小説を読んでいると、あの有名なハードボイルド作家レイモンド・チャンドラーの小説に登場するフィリップ・マーロゥという探偵の言葉を思い起こします。

「男はタフでなければ生きてゆけない。しかし優しくなければ生きてゆく資格がない」
ちょっと気障で、かっこいい言葉ですよね。

藤原伊織さんの小説の中に登場する男性像もフィリップ・マーロゥを意識して書いているのかどうかは分かりませんが、少し気障なところ、強くて優しいところなど、何か共通しているように思えます。
男が憧れるような男なのでしょうね。

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2007年01月27日

孫と一緒にかき餅つきに参加


kakimoti-1.jpg今日は、白木農園恒例の「寒のかき餅つき」に、兵庫から来ていた孫と一緒に参加しました。白木農園の行事に私が孫と参加するのは今回が初めてのことです。

かき餅つきは午前9時から、簡単な説明があった後、早速始まりました。参加者は32名、奥さんを同伴の方もあり、35〜6名だったと思います。

会員のTさん、Hさんが昨日から、餅つき臼の準備やもち米をすべて洗って用意してくださっていたので、すぐに取り掛かることができました。お米をとぐといっても、2斗のお米ですから想像するだけで大変な事です。

作業はもち米を蒸し、それをある程度まで餅つき機でついておいて、それを石臼に移しつくのです。かき餅を8臼、その他の餅を2臼、合計10臼です。

私が一番感心したのは、会員のHさんがかき餅の形を整えるのに、雨樋を90センチほどの長さに切って用意し、それについたかき餅を入れて固まるのを待つアイデアです。不思議な事に、1臼の餅がその90センチの雨樋にピッタリ納まるのです。

そんな新兵器や、段取の素晴らしさで、作業の分担してスムースに進みました。11時過ぎにはすべての餅ができあがりました。
その後、つきたての餅を全員で試食しました。餡をのせた餅、大根おろしをかけたもの、餡ころ餅など、つきたての餅はとても美味しいかったです。

何より素晴らしいと思うのは、今日の材料がすべて会員の手により栽培されたものばかりである事です。もち米はIさん、大根や餡はTさんの提供、黒大豆は白木農園で収穫したものです。

32名の参加者は、かき餅のお土産付きで帰宅。2日ほどで切って乾燥させ、焼いて食べますが、きっと美味しいことでしょう。

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2007年01月25日

星野ジャパン誕生

野球野球野球
2008年北京五輪出場を目指す野球の曰本代表監督に、阪神タイガース前監督の燃える男・星野仙一さんが就任することが本日正式に決まりました。星野さんは18曰午前、東京都内でプロアマチュア球界の各代表者と会談し、監督就任を正式に要請され、受け入れていました。
今日、開かれたプロアマ合同の全曰本野球会議・曰本代表編成委員会を経て正式に発表されました。北京五輪アジア地区予選は11月26日から12月2日まで台湾で行われ、1位が出場権を獲得します。代表チームはプロを中心として編成される方針で、選手把握に定評のある星野さんが以前から候補に上がっていました。
星野さんは現在、阪神のオーナー付きシニアディレクターを務めていますが、阪神球団も全面的な支援を約束しているそうです。

五輪の日本代表監督にプロ野球出身者が就任するのは、2004年のアテネ五輪の長嶋茂雄さんに次いで二人目ですね。
昨春のWBC(ワールド・クラッシク・ベースボール)では、王監督が率いた日本代表チームが金メダルを獲得したのは、まだ記憶に新しい方も多いことでしょう。

星の監督のもと、まず出場権をかけて一丸となり、そして、北京五輪で素晴らしい試合を見せてくれる事を願っています。今日の記者会見でも力強い声を聞く事ができました。勝ちにこだわる星野さんのこと、きっと金メダルをもたらしてくれるでしょう。
長嶋前監督も王監督も声援を送っていました。
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2007年01月24日

司馬遼太郎さんの「関ケ原」を読んで その2

昨日のブログの続きです。

豊臣家は幼君・秀頼を擁して、大老の徳川家康・前田利家と石田光成・長束正家・増田長盛らの5奉行からなる、合議制の政治仕組みを作っていました。
家康が天下を取るためには、秀頼の後見人という立場を利用しつつ、豊臣家を護るように見える戦いを起こすことが必要でした。そのためには謀反を起こす大名を作ることです。その大名に選ばれたのが石田光成と通じている会津の上杉景勝でした。

そして、徳川家康を中心として福島正則などの豊臣家恩顧の大名を集結し、会津上杉討伐に向かったのです。
その途中、野州小山の宿での軍議で、「秀頼様の天下の治安をたもつために反乱者である上杉景勝を討つ」という名分で引きつれて来た諸将を、一転してして、秀頼を擁する石田三成を討つ作戦に従事させるという決定的な会議にしなければなりませんでした。
つまり、公的な立場で集めた軍隊を「一挙に家康の私兵にしてしまう」会議にしたのです。その重要な会議の前に、家康と側近たちは綿密な作戦を立ていました。その中心は故太閤の血縁者であり、太閤の恩を受けた人物でありながら、単純で猪突猛進の性格から石田三成を激しく憎んでいる福島正則に、家康支持の口火を切らせるというものでした。
たがいに肚を探りあって定見のない人々の集まりでは、そうした口火が事態を決するであろうことを家康はよみきっていたのです。しかし、その福島正則をだれが口説くかが問題です。もし、家康の側近自身がそうした行動をとれば、策が見え、逆効果になってしまうからです。そこで、策士であり、利害の計算から家康を一貫して支持して来た黒田長政にその役をふりあてたのでした。

また、そうした会議では、そこに出世の機会を求める人々が、それぞれの思惑で行動し、複雑で、いささか滑稽な人間模様を作り出します。堀尾忠氏が家康につくということを徹底させ、それに劇的効果を与えるため、城と領地を家康に献上する事を山内一豊に打ち明けます。
ところが、その小山の会議では山内一豊がその名案を盗んで、我が意見として一番に発言するのです。それが各諸侯が自分の領地と城を次々と献上する結果になりました。
家康は、「これでこの戦いは勝った」と思ったといいます。
一豊はこの功により関ケ原以後、掛川6万石から、土佐26万石へと出世したのは有名な話です。

そして、会津上杉討伐に向かった家康の不在を衝いて、光成が大阪で挙兵し、まんまと家康の策に乗ってしまうのです。光成挙兵の情報を得た家康は、諸侯を一転させ光成討伐に向かわせるのです。
西軍10万、東軍7.5万が関ケ原に集いました。関ケ原の戦いです。
光成が味方と思っている大名も大半が家康と通じていて、10万人いたはずの光成の西軍で実際に戦ったのは3万人くらいでした。
途中まで優勢だった西軍も小早川秀秋の裏切りにより形勢が逆転し、東軍・家康の勝利になるのです。
朝始まった戦闘は夕刻の4時には、終了していました。

権謀術数を尽くし戦術・戦略をたて、この様に関ケ原に至る状況は、現在の日本における選挙の前の多数派工作や、自民党の総裁を選出する派閥工作に驚くほど似ています。違うのは、戦闘の代わりに投票で、負けても命や財産を無くす事がないということくらいでしょう。

関ケ原の戦いは、徳川家康を中心とする大名たちと石田光成を中心とする大名群に分かれての戦いでした。しかし、元をただせば秀吉の正室である北政所と側室の茶々の戦いなのです。表舞台では家康と光成の戦いのように見え、実は裏で女たちの力がその歴史を動かしていたのです。

北政所は単に奥方というだけでなく豊臣家における最大の政治力として、諸侯から恐れられていました。関ケ原の前夜、もし彼女が、「家康を討て」と、その影響下にある諸侯に内命したとすれば、日本の歴史が変わっていただろう、とさえ言われるほどです。豊臣家を守る事より、側室茶々を許さないことを選んだのことを考えると、女性の嫉妬?が国を滅ぼしたと言えるかも知れません。

この小説は関ケ原の戦いとそれに至る過程の描写です。重要な史実や歴史の解釈も司馬さんの目を通して学ぶ事ができます。戦国諸侯のそれ以前、それ以降についても書かれていて、立派な歴史書だと思いました。




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2007年01月23日

司馬遼太郎さんの「関ケ原」を読んで その1

司馬遼太郎さんの「関ケ原」を読みました。文庫本で上、中、下巻、約1600ページですが、面白くて、割りあい短期間で読んでしまいました。

この小説の題材になっている関ヶ原の戦いは文字通り天下分け目の決戦です。その勝利によって徳川の支配体制が固まり、それ以後二百数十年にわたる徳川時代が続くことになるのは良くご存知のことです。

歴史家はこの関ヶ原の戦いを、壇の浦の戦い、鳥羽伏見の戦いと共に、日本の三大決戦としています。東西両軍あわせて10万以上の兵力が対峙したということにおいて、それは日本における最大規模の戦闘で、しかも、朝に始まった戦闘は夕刻には決着がついていたのです。
日本史の中で、「最も日本史を面白く読める一日はないか」と尋ねられれば、1600年の「関ケ原の合戦」をあげる人が多いのではないでしょうか。

しかし、関ヶ原の戦いは軍事的な決戦という性格よりも、政治的な争いという性格の強いものでした。すなわち、いかに多くの大名たちを集めうるか、また、一応集まった大名を、味方に関しては惹きつけ鼓舞し、敵方については切り崩すという政治的策謀の成否が関ヶ原の戦いを決することになるのです。

それは関ヶ原の戦いが、豊臣秀吉の跡目争いであったことによるからです。
関ヶ原で戦った二つの勢力は、何十年も前から敵味方に分かれていたわけではなく、すべて秀吉の配下にあり、それぞれの思惑を胸に秘めつつ、ともに行動してきた大名ばかりです。
それが、秀吉死後の指導者をめぐって分かれ、争うに至ったのです。一方は秀吉の死後、最大の実力者となった徳川家康を中心としグループと、他方は石田光成が策謀し、豊臣家という名分をかついで集まる事になったグループです。

少し、この関ケ原の小説の話題から離れますが…。
戦国武将の中で、信長、秀吉、家康の後継者に対する考え方は全く違っていたように思えます。織田信長は、完全な能力主義者でした。徳川家康は「御三家」を作り、その中から「後継者を召し上げる」という方法を生み出しました。豊臣秀吉は、この二人とは違い武士の出身ではありませんでした。そのため、自分の後継者を血の繋がった者に固執し、これが「天下人の悲劇」を生み出す結果になったのだと思います。

側室に茶々が鶴松を生み、秀吉は歓喜しますが、その鶴松が死んでしまいます。そこで、甥の秀次を後継者にするため「関白」にします。ところがその後で、「秀頼」生まれるのです。秀頼を跡継ぎにしたい秀吉は、関白の秀次を切腹に追い込んでしまうのです。
そして、まだ幼い秀頼を残して秀吉は死んでしまいます。

徳川家康は、秀吉の死を待ちに待っていました。秀吉が死んだ時は、「よし、これでようやく自分の番が廻ってきた」と思ったことでしょう。

話を戦国時代の信長以前に目を向けてみますと、戦国時代の戦い方には一つの約束事があったのではないかと思うほどです。それ以前の合戦を見てみると、守護大名たちは無茶苦茶に戦闘を仕掛けたわけではなく、戦場を決めて、集いつつタイムテーブルにのって合戦をしていたように見えるのです。
それは、命を懸けたオープントーナメントのような戦いぶりでした。
そして、戦いにはきちんとしたルールがあり、自分達の領土(家)を守るための戦いだったように思います。そこには、戦に対する倫理観のようなものさえ感じます。
「ずるいことはしない」、「卑怯な事はしない」「約束は守る」という、戦国時代の美しいルールのようなものがあったように思えるのです。

それが、信長の時代から少しずつ変わってきたように思えます。秀吉から家康へと政権が移る過程では、「仏の嘘は方便、武士の嘘は戦略」などといわれるまでに変わってきたのです。

「関ケ原」に至るまでを書いていたら、少し長くなってしまいました。そこで、今日はここまでにして、「その1」にしました。明日、この続きを書きます。興味のある方は覗いて見てください。
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2007年01月22日

ひろしま男子駅伝は熱い!!

今年も私たちをワクワクさせる第12回全国都道府県対抗男子駅伝が昨日開催されました。
12時30分、 広島市平和記念公園前スタートして、廿日市市大野町を折り返す7区間、48.0kmを7人の選手で繋ぐ12回ひろしま男子駅伝です。
過去、3大会連続で1位を独占し続けてきた長野の4連覇が、大会前の大きな話題でした。
この時間だけは、テレビの前に釘付けになった人が多いのではないでしょうか。もちろん私もその一人です。

しかし、今年は兵庫の強さが際だっていました。3区で1位になると、どんどんその差を広げ、最終7区でも2位に1分以上の差をつけてタスキが渡され、そのままゴールしました。
昨年は優勝テープを切った長野の佐藤 悠基選手も、今年の1分20秒近い差はやはり無理だったようです。でも、堂々の2位、誇って良い順位だと思います。
各区間、選手達の懸命な走りには元気をもらい、熱い走りからは感動を得ます。
残念ながら我が広島県は、13位。昨年の6位からみると順位は下がりましたが、また来年の奮闘に期待しましょう。

1位から8位までの入賞チームは下記の通りでした。

1 兵 庫(谷野 琢弥、志方 文典、竹沢 健介、中山 卓也、八木 勇樹、野村 亮太、北村 聡 )
2 長 野
3 佐 賀
4 長 崎
5 熊 本
6 福 岡
7 宮 城
8 群 馬

この 全国都道府県対抗男子駅伝を開催するに当たっては、実に多くの方の陰で支える力があると聞いています。私たち農業塾OB会の会員の中にも、この大会に協力している人がいます。だから、この大会が立派に運営されているのですね。沿道でのマナーの良い声援も年々増えているように思えます。
華やかさの陰に隠れている関係者の皆様、本当にご苦労様でした。

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2007年01月20日

冬晴れの空の下で「麦踏」


mugifumi2007.1-1.jpg昨年の秋に播種した小麦が10センチ余りに成長していて、その麦踏をしました。
午前9時から、農業塾OB会白木農園の圃場に会員が集まり、麦踏と除草の作業をしました。参加者は24名、今日はすっきり晴れたとても良い天気で、気持ちよく作業ができました。

麦は茎葉ばかりが成長すると、根の発育が遅れます。この時期、麦を踏み付けることにより茎葉の成長は一時止まりますが、その分、根の発育が良くなり、寒さ、特に霜害に対して強くなります。
最近ではローラーなどを使っての作業も多いようですが、昔ながら のゆっくりゆっくり麦をふんでいる姿は懐かしく、長閑な風景でいいものです。
約12アールくらいの広さですから、これだけの人数で踏めば1時間半ほどで作業は終了しました。

mugifumi2007.1-2.jpg休憩は会員のOさんが毎回用意してくださる、
暖かいお茶で…
mugifumi2007.1-3.jpg

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2007年01月19日

「団塊就農」の記事


OB yamada.jpg広島市農協の営農指導員からアドバイスを受ける山田さん
(中国新聞より)

今日1月19日(金)の中国新聞8面に、「団塊就農」の記事が掲載されていました。中国地方の農協が、今年から大量退職が本格化する団塊世代を主な対象にした就農支援を強化している。という内容の記事です。

中国地方のいろいろな地域で進められている現状が紹介されていました。その記事の中に私たち農業塾OB会・白木農園に関する話題と、白木農園の会員で、現在、専業農家として頑張っている山田さんの記事がありました。その一部を紹介します。

農業塾を1998年から続けているJA広島市農協でも成果が挙がり始めた。これまでの卒業生は733人。このうち約40人が03年から、安佐北区白木町の休耕地約40アールを共同で借り受け、大豆や小麦などを栽培している。
同農協の農業塾卒業生、山田稔さん(55)は昨年3月、20アールでホウレン草やキャベツなどを栽培する専業農家になった。元食品会社の営業職で、スーパーを回っていた経験を生かして売れる野菜づくりを目指す。「将来は高齢で農業ができなくなった近所の人の土地も引き受け、さらに農地を広げていきたい」と意気込む。

上記は、記事の本の一部ですが、私たちの仲間が頑張り、この様にマスメディアで取り上げられるのはとても嬉しい事です。
山田さん頑張ってください。

団塊の世代の人たちの力で、日本の農業が良い方向に変わることを期待しています。



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